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護念寺 (京都市上京区) Gonen-ji Temple |
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護念寺 |
護念寺 |
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![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂、山号扁額「天照山」 ![]() ![]() ![]() 松 ![]() ![]() シダレザクラ ![]() ![]() 地蔵堂 ![]() 延命地蔵 ![]() 普賢菩薩 ![]() 平和観音 ![]() ![]() 大岩 ![]() ![]() |
今出川通千本西入ルに護念寺(ごねん-じ)はある。中世には「京都尼寺五山」の一つに数えられた。山号は天照山、院号は慈応院という。 浄土宗、本尊は阿弥陀如来を安置する。 江戸時代、延命地蔵は、洛陽延命地蔵巡りの2番だった。 ◆歴史年表 鎌倉時代前期、天台宗・護念慈応が、父・源為義の菩提のために開創した。 南北朝時代、1346年、藤原利顕が堂宇を建立した。禅宗であり、「京都尼寺五山」の一つに数えられた。(『園太暦』『康富記』) また、鎌倉時代-室町時代、臨済宗の尼寺であり、「京都尼寺五山」の一つに数えられた。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、衰退する。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)/1596年後、重誉により浄土宗に改宗され再興される。(『坊目誌』) 1692年、当寺の延命地蔵は、洛陽延命地蔵巡りの2番だった。 1730年、旧6月、西陣大火で罹災する。 近代、1920年、現在の本堂が再建される。 現代、2018年、地蔵堂が修復された。 ◆護念 平安時代後期-鎌倉時代前期の真言宗の僧・護念(ごねん、1142-1200)。詳細不明。男性。幼名は慈應(応)。護念上人。父・源為義の第20子?。頼朝・義経の叔父。幼くして仏門に入り、比叡山にのぼる。1159年、平治の乱以後、平家に追われ比叡山から下りた。日頃より帰依した比叡山無動寺の最澄請来の不動明王「御頭」のみを笈(きゅう)に納め、諸国を巡錫した。1185年、越後国(新潟県)新発田に真言宗醍醐派の菅谷寺(かんこく-じ)を建立したという。1195年、旧10月、鎌倉を訪れ頼朝に会う。祈祷により頼朝の大姫の病を回復させたという。58歳。 ◆源 為義 平安時代後期の武将・源 為義(みなもと-の-ためよし、1096-1156)。男性。通称は六条堀河に住み六条判官。父・源義親(よしちか)の4男。源義家の孫。1108年、父は乱行により平正盛に追討される。為義は、叔父・源義忠の養子になる。悪左府(あくさふ)・藤原頼長の従者になった。1109年、義忠が殺害され、朝命により義家の弟・義綱一族を追討し、その功で左衛門尉に任官した。祖父・義家を継ぎ河内源氏の当主になる。白河法皇(第72代)から第74代・鳥羽天皇の警護に起用される。1135年、瀬戸内海の海賊追討使の候補になるも、鳥羽上皇は為義を嫌い、平忠盛を任命した。為義は、次第に摂関家・藤原忠実に接近する。1143年、藤原頼長に臣従した。警護・家人取締り・興福寺悪僧の処罰・荘園の管理などを一族と共に担う。1146年、検非違使になった。1150年、忠実が長男・忠通を義絶した際に、為義は東三条殿の警備に当たる。1154年/1155年、為義の子・為朝の九州での乱行により解官された。家督を長子・義朝に譲る。1156年、保元の乱で崇徳上皇(第75代)・藤原頼長方に子・頼賢・為朝らと加わる。第77代・後白河天皇方に付いた義朝と敵対した。夜襲の献策を頼長に退けられ敗北した。潜伏後、延暦寺で出家し義朝への助命嘆願も及ばず、旧7月、義朝により5人の子らと船岡山で斬首される。61歳。 ◆藤原 利顕 南北朝時代の武将・藤原利顕(?-?)。詳細不明。男性。能登守。1346年、京都・護念寺の堂宇を建立したという。 ◆重誉 安土・桃山時代の浄土宗の僧・重誉(?-?)。詳細不明。男性。重誉上人、十誉。慶長年間(1596-1615)/1596年後、京都・護念寺を浄土宗に改宗し再興する。 ◆疋田 芳沼 近代の日本画家・疋田 芳沼(ひきた-ほうしょう、1878-1934)。男性。名は熊吉 。愛知県の生まれ。田中月耕・菊池芳文につく。1907年、第1回文展初入選し、以後文展・帝展に出品した。1931年、帝展に推薦される。愛知県・安久美神戸(あくみ-かんべ)神明社に大額が残る。57歳。 四条派、森田華弘の師。 ◆国井 応文 江戸時代後期-近代の日本画家・国井 応文(くにい-おうぶん、1833-1887)。男性。字は仲質、別号は彬々斎。京都の生まれ。父・医者、母・円山応挙の孫、円山応震の妹。円山応立に師事し、1875年、応立没後は一門の後継者になった。1855年、竣工した内裏造営で小座敷に墨画山水の襖絵を描く。1866年頃、中島来章、塩川文麟らと如雲社を設立した。1880年、京都府画学校に出仕した。京都博覧会でも受賞する。1884年、第2回内国絵画共進会に「桂御所御庭図」「花鳥」を出品し褒状を受けた。1886年、幸野楳嶺らが設立した京都青年絵画研究会の展覧会で審査員を務める。55歳。 円山派、山水花鳥画に優れた。 ◆仏像 ◈本堂安置の本尊「阿弥陀如来」は、上品下生の印を結ぶ。胸に卍字跡がある。 ◈地蔵堂の中央に「延命地蔵」、脇侍右に「掌善童子」、左に「掌悪童子」が安置されている。いずれも現代、2018年に修復されている。 延命地蔵は、安土・桃山時代-江戸時代前期の慶長年間(1596-1615)以前より安置されていたとみられている。江戸時代前期、1692年の「洛陽延命地蔵巡り」では順道は2番だった。因みに1番は東光寺(北野御前通)、3番は上善寺(鞍馬口)、4番は西昌寺(寺町椹[さわら]町)、5番は万年寺(五条下ル寺町)、6番は長圓寺(松原大宮西入ル)だった。 江戸時代末、摺袈裟(すりけさ)地蔵信仰が盛んになり、この地にも伝来した。摺袈裟とは僧侶が用いる袈裟の内に仏を表す梵字・仏の功徳を説いた言葉、「陀羅尼(だらに)」を刷った木版をいう。「袈裟曼荼羅(けさ-まんだら)」とも呼ばれた。摺袈裟の御利益としては、病気治癒・滅罪生善、没後は、棺桶に入れるか、仏檀に供えると極楽浄土できるとされた。当寺にも「地蔵菩薩摺袈裟(すりけさ)縁起」(1866年旧11月)の版木が残されている。 ◈地蔵堂の右袖に「普賢菩薩」が安置されている。白象に乗り合掌する。現代、2018年に修復された。 ◆建築 ◈「山門」は、かつて境内西の六軒町側に開いていた。その後、近代、1920年の再建時に、現在の境内北の今出川側に移される。 ◈「本堂」は、近代、1920年に再建された。 ◈「地蔵堂」がある。現代、2018年に修復されている。 ◆文化財 ◈「地蔵菩薩摺袈裟(すりけさ)縁起」版は、江戸時代後期、1866年旧11月と彫られている。 ◈本尊空殿脇の板戸に「蓮華」が描かれている。檀信徒の画・疋田芳沼(1878-1934)による。 ◈内陣余間の六曲屏風「四季」一双は、画・国井応文(1833-1887)による。 ◆地蔵菩薩摺袈裟縁起 江戸時代前期の「地蔵菩薩摺袈裟(すりけさ)縁起」版には次のような趣旨が彫られている。 「昔、伊豆の田中という村里に五郎太夫時重という人がいました。明徳元年(1390年)庚午(かのえうま)の五月二十八日に何の煩(なやみ)もなく急に死で閻魔王宮に至りました。 閻魔王宮では十王が手に一つの袈裟を持ち五郎太夫に授けて言いました。『おまえは正(まさ)しく曾我五郎が再誕である。父に孝行の善因あるだけでなく神社に奉仕(つかえ)ることによって三度人界(にんかい)の果てを得た。兄の十郎は欲望にとらわれて心が離れなく業(ごう)に引れて五百生地獄に堕ち苦しみをかぎりなく受た。しかし彼もまた父に孝行の善因がある。おまえの報命はいまでもあるから再度娑婆にかえって此袈裟を十郎の墳(つか)のうえにおおい一日一夜地蔵尊の名号をとなえなさい。必ず苦しみをまぬがれて天に生ずるはずだ。たとえ過去において千劫(せんごう)の罪業をつくっても此袈裟を一度身にまとえば一切の災難を遠ざけ無病長寿安産等を求める所みな満足し、将来は三途(さんず)の極苦を免れ、さえぎりのない浄土に往生すること疑いない。若(もし)そうでなかったならば我ふたたび十王とよばれない』と誓われたときに夢の覚るが如く命が蘇えりました。 その時掌(てのひら)の中に袈裟があり誠に不思議なことでした。恐ろしくもあり、ありがたく喜び尊び、そして曾我の里にいって里人に尋ねると十郎の塚より夜毎に火がもえ出る事ありと。御告をおもい合せてますます信じ彼の大王に教えどおり袈裟を塚のうえに覆い地蔵尊の宝号をとなえ一日一夜を満たしたときに塚の中よりこえ有って『二百年来苦しみを受けることかぎりなし、今修めるところの功力によって五百生の罪業を滅し、ただちに天上に生ず』と、やがて音楽が大空にひびきました。殊勝(しゅしょう)に有がたく天を拝みました。 同年秋のころ、袈裟の圖相(ずそう)をながく世に結縁(けちえん)させるために梓板(あずさいた)に絵にして同州修善寺に納めました。(五郎太夫名判ある摺袈裟縁起の趣意)。爰(ここ)に豆州(いづのくに)阿育王山阿弥陀寺は霊跡であるから五郎太夫の子孫は袈裟の圖相を版として奉納しました。今までは什宝(じゅうほう)としています。茲(ここに)今由緒あるは袈裟の圖相を写し得て当院においてもまた梓板に絵にして世にひろめ結縁をおこなう、殊に当山の地蔵尊は空海弘法大師の御作にして利益をいただくもの数をしれません。だから皆さんが各先亡追福のために此尊像を奉祈るとの彼の十郎のごとく地獄苦しみをも速(すみやか)にまぬがれるとともに浄土に生まれる事を願うのみである。 その袈裟の徳は、天龍一片を得れば金翅鳥(こんじちょう)の恐れない。人間が一絲(いっし)を帯びれば悪鬼(あくき)は近づく事がなく。婬女(いんにょ)とのたわむれにかけては断ち切って阿羅漢を得。酔人(よいどれ)かたちにかくれば仏種(ぶっしゅ)の縁となる。しかも此の袈裟は九條の大衣(だいえ)にして條ごとに顕密両教諸尊の種子と随求(ずいぐ)の諸陀羅尼(しょだらに)を配り施し、若し一字風にしたがって野外の骸(しかばね)にふれれば、その人地獄に在っても罪業が頓(たちまち)に滅して浄土に往生すると。言うに及ばす陀羅尼全文の功徳(くどく)廣大なる事は量ることができません。其上若し此袈裟の利益(りやく)がないならば二度と十王とよばれないと閻魔王宮の誓約があるので人々が信仰するようになりました。」(維時 慶應二年(1866年)丙寅十一月京都西陣 護念寺地蔵堂印施、『護念寺のしおり』より転載) ◆平和観音 平和観音は、地蔵堂の右手に立てられている。西陣田中町の某女により建立されたという。太平洋戦争下で、京都市内最大の空襲だった西陣空襲の惨事を目にし、犠牲者の供養のためだったという。 近代、1945年6月26日午前9時40分頃、米軍爆撃機B29の1機が、複数発の爆弾を京都市内に投下した。投下地点は、上長者通と下立売通、大宮通と浄福寿通に囲まれた地域であり、上京区智恵光院通下長者町上ルほかに着弾した。当時の西陣警察署の空襲被害記録によると、死者43人、重軽傷者66人、家屋全壊71戸、同半壊84戸、一部損壊137戸の被害が出たという。それ以上の被害があったともされる。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。 ❊参考文献・資料 『京都市の地名』、『護念寺のしおり』、「地蔵菩薩摺袈裟縁起」、平和観音の駒札、 ウェブサイト「しばた観光ガイド-新発田市観光協会」、ウェブサイト「京都市立芸術大学芸術資料館」、ウェブサイト「『西陣空襲』における記憶の継承-立命館大学国際平和ミュージアム」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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