|
|
福井藩邸跡 (京都市中京区) Site of Fukui Domain Residence |
|
福井藩邸跡 | 福井藩邸跡 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
Hotel The Mitsui Kyotoの敷地北西に、「福井藩邸跡(ふくい-はんてい-あと)」の石標が立てられている。 この地には、江戸時代後期に越前福井藩邸(越前松平屋敷跡)の京屋敷があった。 ◆歴史年表 江戸時代後期、この地に福井藩藩邸京屋敷が移されている。 1831年、「京大絵図」に藩邸が描かれている。 現代、1968年、京都市により現在の石標が立てられた。 ◆福井藩・京屋敷 江戸時代後期、京都福井藩邸は現在のホテル一帯(油小路二条下ル西側)に存在した。 福井藩(越前藩)は、安土・桃山時代、1600年に、徳川家康の次男・結城(松平)秀康(1574-1607)が下総国結城から封じられたのに始まる。福井に藩庁を置き親藩、御家門の雄藩だった。初め北庄(きたのしょう)藩、後に越前藩とも称した。藩校には「正義堂」、「明道館(めいどうかん)」があった。産業は、藩専売品の五箇(ごか)の和紙(越前奉書)、幕末期には絹織物が下級武士の内職として行われた。 幕末、16代藩主・慶永(よしなが、1828-1890、春嶽[しゅんがく])は、御三卿の田安徳川家から養子に入る。幕政にも関わり、一橋派として大老・井伊直弼と対立した。慶永は、安政の大獄(1858-1859)で隠居の身になる。1862年に最初の政事総裁職として復帰し、公武合体派の中心として活躍した。肥後国熊本藩・横井小楠(1809-1869)を藩に招き、藩士・橋本左内(1834-1859)、由利公正(1829-1909)らも改革に加わる。 福井藩邸京屋敷は、近世初期に下立売通小川西入ル、新町通一条下ルに置かれる。その後、二条堀川東南の現在地に本邸が移る。江戸時代後期、1831年の「京大絵図」にも藩邸が描かれ、これ以前より存在したと見られている。幕末期には、聖護院にも邸があった。 本邸には留守居役が詰めた。左内も出入りしている。1863年5月27日に、坂本龍馬(1835-1867)は御用掛・中根雪江(1807-1877)を訪ねた。6月29日に、龍馬は勝海舟(1823-1899)の使者として再訪し、慶永側近・村田巳三郎(氏寿、1821-1899)に会っている。龍馬は、由利公正の新政府取立てについて話した。 近代、1871年の17代・茂昭(もちあき) の時に廃藩になる。1881年に再置の福井県に入った。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 京都市の駒札、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|