橋本左内寓居跡 (京都市中京区)  
Ruins of Hashimoto,Sanai Temporary Residence
橋本左内寓居跡 橋本左内寓居跡
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 Hotel The Mitsui Kyotoの敷地北西隅に、「橋本左内寓居跡(はしもと-さない-ぐうきょあと)」の石標が立てられている。
 この地には、江戸時代後期に越前福井藩邸(越前松平屋敷跡)があり、藩邸内には幕末の志士・橋本左内寓居があった。
◆歴史年表 江戸時代後期、この地に福井藩藩邸が置かれた。(「京大絵図」1831)
 1852年、2月-4月、橋本左内は江戸より京都に入り、福井藩邸内に居住している。
 現代、1968年、11月、京都市により現在の石標が立てられる。
◆橋本左内 江戸時代後期の武士・医師・橋本左内(はしもと-さない、1834-1859)。名は綱紀、字は弘道、伯綱、号は景岳(けいがく)、黎園、通称は左内。越前(福井県)藩藩医・橋本長綱の長男、母は僧侶・小林静境の娘・梅尾。藩儒・吉田東篁(とうこう)に学ぶ。1848年、15歳の時、『啓発録』を著した。1849年、16歳で大坂の緒方洪庵の「適々斎塾」に入門し、蘭学、医学を修めた。蘭学者・杉田成卿(せいけい)に学び英語、ドイツ語も読解する。1852年、父を継ぎ藩医になる。1853年、ペリー来航後、1854年-1855年、江戸に出て水戸、薩摩藩士、政治家・学者の藤田東湖、西郷隆盛らと交遊した。1855年、医師を免じられ、藩の御書院番に起用された。1857年、由利公正らと藩政改革を行う。藩校「明道館」の学監を務め、政教一致、経済有用の学を唱えた。館内に「洋書習学所」を設ける。江戸に呼ばれ、藩主・松平慶永(よしなが)の侍読兼内用掛になり、一橋慶喜を擁する将軍継嗣運動に関わる。1858年、上京し公家に通商条約への勅許を勧めた。紀州の慶福(よしとみ、家茂[いえもち])を推す南紀派大老・井伊直弼により、一橋派は敗北した。安政の大獄(1858-1859)で、継嗣問題への介入を理由に捕えられる。1859年、江戸・小塚原刑場で斬首された。著『啓発録』など。26歳。
 西洋文明を導入し、幕府、雄藩連合による統一国家、富国強兵、開国貿易、日露提携などを提唱した。
 1852年2月-4月、左内は江戸より京都に入り、福井藩邸内に居住していた。桃井亮太郎、桃井伊織の偽名で藩邸に詰めた。公家に開国を基本にした幕政改革を説いた。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の駒札、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『京都事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 橋本佐内寓居跡 〒604-0051 京都市中京区二条油小路町284 ,東堀川通二条下ル東側 Hotel The Mitsui Kyoto 北西隅
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