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聖ヨゼフ修道院門の家(旧住友家衣笠別邸門衛所) (京都市北区) House of the St. Josef monastery gate |
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聖ヨゼフ修道院門の家 | 聖ヨゼフ修道院門の家 |
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![]() 東側、門の家 ![]() 東側、門の家 ![]() 東側、門の家 ![]() 東側、門の家 ![]() 東側、門の家、煉瓦積み ![]() 北東角、門の家 ![]() ![]() ![]() 東側、門の家、煙突 ![]() ![]() 南東角、門の家 ![]() 南側、門の家 ![]() ![]() 南側、門の家 ![]() 東側、門 ![]() 東側、門柱 ![]() ![]() ![]() ![]() 東側、門、袖壁 ![]() ![]() |
北野東紅梅町(きたの-ひがしこうばい-ちょう)に、聖ヨゼフ修道院門の家(せいよぜふ-しゅうどういん-もんのいえ)がある。かつて住友家衣笠別邸の門衛所だった。 設計は、近代の建築家・多久仁輔によるといわれている。 ◆歴史年表 近代、1919年、住友家衣笠別邸は上棟される。 1920年、竣工した。後に荒廃する。 太平洋戦争(1941-1945)中、「衣笠苗園」と呼ばれていた。 現代、1971年、衣笠邸の住宅部分は取り壊される。跡地に、聖ヨゼフ修道院の施設が建てられた。残された旧門衛所は以後、「門の家」と呼ばれる。 1998年、7月、国の登録有形文化財に指定された。 ◆多久仁輔 近代の建築家・多久仁輔(?-?)。詳細不明。男性。工手学校(現・工学院大学)の出身。住友営繕に入る。1920年、住友家衣笠別邸の門衛所、門を設計したという。 ◆住友友純 江戸時代後期-近代の実業家・住友友純(すみとも-ともいと、1865 -1926)。男性。幼名は隆麿、号は春翠。父・徳大寺公純(第113代・東山天皇の5世孫)、母・千世浦斐子(末弘氏)の第6子。兄・徳大寺実則、西園寺公望、中院通規ら。洛北の徳大寺家別業「清風館」で生まれた。父より『日本書紀』、『詩経』などを学ぶ。1883年、父が没する。1884年、東京・徳大寺邸に移り、学習院に入学した。1885年、学習院中学科生、1887年、法律選科に入る。1892年、14代当主・住友登久の長女・満寿の婿として養嗣子になる。学習院は退学した。以来、住友本邸(中央区)に住む。1893年、住友15代を継ぎ、住友吉左衛門友純と称した。家業を継承し、別子銅山(愛媛県)、銅貿易(神戸市)、再製茶・樟脳製造業、生糸業(滋賀県)を営む、1895年、住友銀行(大阪中之島)を開業し、重役になる。1896年、家法を改正した。1897年、欧米を歴訪する。1900年、総理事になった。1906年、勲二等瑞宝章を受章した。別邸(東京)を設ける。1908年、本店・銀行本店(東区)を移し、1909年、住友本店を住友総本店にした。1911年、伸銅場中之島分工場を廃し、安治川本工場に合併する。男爵を授けられる。住友電線製造業を分離し、住友電線製造所を設ける。1912年、銀行を株式会社にする。大阪商工会顧問に就いた。1913年、肥料製造所(愛媛県)、1915年、住友私立職工養成所を設立し、理事になる。1916年、住友洋行を上海、1917年、天津に置く。1918年、東北大学鉄鋼研究所創立費・事業費を寄付した。1919年、理化学研究所監事・評議員に委嘱される。1919年、岸本製鉄所を買収し住友伸銅所尼崎工場とした。大阪北港株式会社を創立する。1920年、住友鋳鋼所を株式会社にする。1921年、住友合資会社を設立し、社長になった。私立大阪住友病院を設立する。1922年、府立大阪図書館を増築完成し、大阪府に寄贈した。1923年、住友ビルディングを設立した。1925年、本邸(兵庫県)を移す。肥料製造所を株式会社にする。住友信託株式会社を設立する。63歳。 茶人であり、中国古銅器類の世界的蒐集家(泉屋博古館コレクシヨン)だった。建築、庭園に造詣深く、 画家・黒田清輝、鹿子木孟郎、浅井忠らに援助した。 ◆建築 近代、1919年に住友家衣笠別邸は上棟される。1920年に竣工した。住友友純が長男・寛一のために建てたという。広大な敷地に純和風の家、庭園があった。寛一が住むことはなく後に荒廃する。太平洋戦争(1941-1945)中には、「衣笠苗園」と呼ばれていた。現代、1971年に、住宅部分は取り壊される。跡地に、聖ヨゼフ修道院の施設が建てられた。現在はゲストハウスとし て使用されている。衣笠邸の遺構は、旧門衛所、旧門だけが残されている。以後、遺構は「門の家」と呼ばれる。1998年7月に、門の家、門は国の登録有形文化財に指定された。 ◈ 旧門衛所は、住友家京都衣笠別邸の跡地内の東側に建つ。外観はほぼ当初の姿を残し、小住宅としても成立している。煉瓦の腰壁とハツリ目(斫り、ノミなどで一部を削る)をつけた木部により構成されている。ハーフティンバー様式(柱・梁・筋違などの骨組みを外に剥き出し、その間にモルタル、煉瓦などを充塡し壁にした西洋木造建築)になる。煉瓦壁部分はイギリス積みで、小口積みと長口積みを交互に段違いに積んでいる。 チューダー・ゴシック様式になる。1485年-1558年のイギリス・チューダー朝時代に様式は興きた。後期ゴシックからルネサンス様式への過渡期にあたる。垂直様式にゴシックの名残り、細部装飾にはルネサンスの影響もある。 木造平屋建、煉瓦壁、瓦葺、建築面積39㎡。 ◈ 門は、近代、1920年に竣工した。門衛所の南隣にあり、門衛所と一体化している。門柱の台座、笠石には御影石を用いている。両袖壁が続いている。袖壁頂部の煉瓦は縦に積んでいる。煉瓦は、各所にハツリ面を見せた煉瓦を挟んでいる。イギリス積みで小口積みと長口積みを交互に段違いに積む。 煉瓦造、両袖壁延べ2.6m附属。 ◆聖ヨゼフ修道会 1643年に、イエズス会士・ジヤン・ピエール・メダイユ師は、フランス中部のサンフロワー市の男子カレッジに送られる。当時のフランスは長期の市民戦争・宗教戦争で国が荒廃していた。多くの末亡人・孤児が残され社会は困窮していた。1650年に女性の使徒的活動会の「聖ヨゼフの娘のいと小さき会」が創立される。メダイユ師はその創設者になった。 フランソワーズ・アイラウドと5人の女性は修道会での活動を行い、活動はフランス西南部へ拡がる。フランス革命(1789-1799)後、第2の創設者・マザーセントジョン・フォントボンヌにより、リヨンで「聖ヨゼフ修道会」が再興される。 1836年に、新大陸に渡った移民のために、6人のシスターがアメリカ合衆国のセントルイスに派遣された。会の活動は、アメリカ合衆国各地、カナダヘも拡がる。カンサス州ウィチタ教区の聖ヨゼフ会は、「ウィチ夕聖ヨゼフ修道会」になった。2007年にウィチ夕聖ヨゼフ修道会を含む、ハートランド地区の7つの聖ヨゼフ修道会は、新しく「聖ヨゼフ修道会」を設立する。現在は、オハイオ州 クリーブランドにセントラル・オフィスを置いている。 1950年に、京都教区長パウロ古屋義之司教とメリノール宣教会の要請により、3人のシスターがウィチタより日本に派遣された。 *内部は通常非公開 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「文化財データベース-文化庁」、ウェブサイト「京都を彩る建物や庭園-京都市文化市民局文化芸術都市推進室 文化財保護課」、『京都の赤レンガ』、ウェブサイト「聖ヨゼフ修道会」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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