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龍谷大学本館 (京都市下京区) Мain building of Ryukoku University |
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龍谷大学本館 | 龍谷大学本館 |
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![]() 東側、正門 ![]() 東側、正門 ![]() 本館、東側、正面 ![]() 本館、東側、正面、玄関 ![]() 本館、東側、正面 ![]() 本館、東側、正面、扁額「真宗學庠」 ![]() 本館、東側、正面 ![]() 本館、東側 ![]() 本館、東側 ![]() 本館、東側 ![]() 本館、北側 ![]() 本館、西側 ![]() 南黌、北側 ![]() 南黌、北側、正面 ![]() 南黌、西側 ![]() 本館、南黌間の渡り廊下 ![]() 北黌、南側 ![]() 北黌、南側、正面 ![]() 北黌、南側 ![]() 西黌 ![]() 西黌、東側、正面 ![]() 門衛所 ![]() 【参照】東黌 |
龍谷大学大宮学舎の龍谷大学本館(りゅうこくだいがく-ほんかん)は、日本人大工の手による擬洋風建築様式であり、その完成度は高いといわれている。 講堂には本尊・阿弥陀如来を安置している。 ◆歴史年表 近代、1877年、1月、本願寺21世・明如上人の時に本館は起工した。 1879年、1月、竣工する。5月、落成式が行われた。 1880年、夏に第122代・明治天皇が行幸した。 現代、1964年、5月、国の重要文化財に指定されている。 1992年、全面解体修復が始まる。 1997年、5月、改修が終わる。 ◆建築 ◈龍谷大学本館(重文)は、近代、1877年1月に、本願寺21世・明如上人の時に起工している。1879年1月に竣工した。設計者名・施工者は不明。なお、建築中に、第122代・明治天皇行幸の休憩地として大幅な設計変更をしている。完成後は本願寺大教校として使用された。現代、1964年5月に、国の重要文化財に指定された。1992年-1997年に全面解体修復が行われている。現在は、勤行・法要、各種の行事・式典、仏前結婚式などにも利用されている。 東面して建てられている。外観は、日本人が設計した擬洋風建築の様式になる。近代、明治期(1868-1912)初期に、大工棟梁が日本の伝統的な技術を用い、西洋建築を表現した和洋折衷の様式をいう。東北・甲信越に多く見られる。関西では先駆的な作品であり、規模・施工においても完成度が高いといわれている。京都の宮大工らは、神戸居留地の西洋建築を見学し技法を学んだとみられている。 車寄上部に三角破風(ペディメント)があり、木造部分は日本の伝統的な工法による。四隅に石が積まれている。木造石貼であり、石材は木部に貼り付けられている。当初は、外国人が居住した横浜などで用いられ工法による。現存するのは本館のみになる。補強用のボルトなど金物も多用されており、屋根を支える小屋組にキングポスト構造(三角形の構造を構成するトラスのうち、中央に真束と呼ばれる支柱の立つ形式)が採用されている。 柱・アーチ・手摺などに洋風の意匠を施した。鉄製門扉・窓・手摺などは、ロンドンから取り寄せている。屋内の細部装飾には、日本の伝統的な菊・桐などの植物・雲などが多用されている。講堂の柱頭の彫刻は、西洋建築の葉を表すアカンサス(古代ギリシャ時代の柱のモチーフ)を真似ている。階段の親柱の彫刻も洋風になっている。 内部1階には十字型廊下で仕切られた左右同形の室が6室ある。2階には東側に講堂があり、本尊・阿弥陀如来像を安置する。西側に階下と同形に2室がある。 本館の西側には窓は開けられていない。浄土真宗の寺院と同じ造りになっている。建物の下部に卍模様の通用口だけが開けられている。 木骨石貼寄棟造、2階建、木造石貼、桟瓦葺、建築面積516.8㎡。 ▪2階の講堂(100畳)は、当初、学生は正座して講義を受けていた。このため、窓の位置が低い。柱頭玄関壁は、漆喰塗で、柱もすべて塗り込めた西洋式の大壁造になる。窓・出入口の枠は欅材で造られ、木目が浮かび上がるワニス(透明塗料)仕上げになる。部屋の天井にクロスが貼られ、下地に和紙を使った金襴織になる。クロスは、明治天皇皇后・昭憲皇太后(1849-1914)の寄贈によるという。現在は、龍村美術織物により、材料、織り方、色などを調査して復元された。 ▪2階北西の貴賓室は、近代、1880年に明治天皇(1852-1912)が行幸し、休憩室として使われた。ほとんどの窓は上げ下げ式になっている。蝶番・締金物などが入手困難なためだった。窓の位置も洋館に比べやや低く、扉の取っ手の位置も低い。僧が袈裟姿で座り、扉を開けられる高さになっている。カーペットの小花唐草文様なども再現されている。カーテンポールは創建当時のものになる。カーテンは大正期(1912-1926)のものに復元されている。 ◈本館の南北には、近代、1877年に建てられた学寮「北黌(ほっこう)」「南黌(なんこう)」が建つ。 いずれも木造切妻造、2階建。桟瓦葺。 ◈建物の周囲には、石造の表門、石垣が巡らされている。当初は上に鉄柵が設けられていた。 ◈門(重文)、門衛所(重文)が建てられている。 ◆文化財 ◈貴賓室に、狩野派11代・狩野英信(法眼祐清、1717-1763)作の松の金屏風が立てられている。明治天皇を迎えた際に飾られたという。 明治天皇が使ったという椅子もある。 ◈扁額「真宗學庠」は、近代、1830年に第20代・広如(1798-1871)による。 ◆龍谷大学 龍谷大学の前身は、江戸時代前期、1639年に第13世・良如(1613-1662)が、本山境内(下京区)に創設した「本願寺(西本願寺)学林(がくりん)」になる。末寺僧侶の教育機関であり学寮だった。1640年に講義が始まっている。 その後、境外の大宮通東側、さらに興正寺の南側に移る。承応年間(1652-1655)の興正寺との争論(承応鬩牆/閴牆[げきしょう])に起因し、1655年に幕命により破却されている。その後、仮学寮での私的な講義を経て、1695年に東中筋花屋町(現・下京区学林町)で学林として再興される。近代、1872年の学制改革に伴い、1876年に「大教校」に改められている。後に「大学林」と呼ばれる。 1879年に現在地(七条猪熊)に移った。1922年に大学令により「龍谷大学」に改称する。1928年より共学制になる。戦後、1949年に新制大学になった。 *内部は通常非公開 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「龍谷大学」、『京都の洋館』、『京都大事典』、『京都モダン建築の発見』、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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