志賀直哉旧居跡 (京都市山科区)  
The ruins of residence of Shiga, Naoya
志賀直哉旧居跡 志賀直哉旧居跡
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道沿いのサクラの大木根元に碑は立つ。

「山科之記憶」の石碑(右)、「志賀直哉旧居跡」の副碑


「山科之記憶」の石碑


「志賀直哉旧居跡」の副碑


傍を流れている四ノ宮川
 山科川支流の四ノ宮川に立原橋が架かる。橋のすぐ南、川沿いの細い道脇に、「山科之記憶(やましな の きおく)」、「志賀直哉旧居跡(しが なおや きゅうきょ あと)」の石碑、副碑が並んで立つ。
 近現代の作家・志賀直哉は、この付近に1年半ほど住んだ。この間に、「山科もの」といわれる4部作の短編作品を書き残している。
◆歴史年表 近代、1923年、10月26日、志賀直哉は、京都の粟田口三条から旧宇治郡山科村のこの地に移り住む。
 1925年、4月まで、直哉はこの地に住し、その後は奈良に移る。
 現代、1989年、京都洛東ライオンズクラブが碑・副碑を立てた。
◆志賀直哉 近現代の作家・志賀直哉(しが なおや、1883-1971)。銀行員の父・直温(なおはる)の次男。母は銀。父の任地、宮城県石巻市に生まれた。1885年、一家で上京し、旧相馬藩家臣で足尾銅山の開発に関わった祖父・直道の家に同居した。祖父を敬愛し、祖母・留女(るめ)に育てられた。1889年、学習院初等科に入学する。後、中等科、高等科に進む。1895年、母が亡くなり、義母を迎えた。1901年、思想家・文学者・内村鑑三の教会を訪ね、以来交流があった。1902年、学習院で小説家・詩人・武者小路実篤、歌人・木下利玄らを知る。1906年、東京帝国大学文学部英文学科に入学し、小説家・里見弴と親交した。後に国文学科に転じる。1908年、処女作『或る朝』を発表した。1908年頃、7年間師事した鑑三のもとを去る。1910年、実篤らと同人雑誌『白樺』を創刊し、『網走まで』を発表した。東京帝国大学を中退し、徴兵検査の甲種合格により市川の砲兵連隊に入営した。すぐに除隊になる。1912年、『大津順吉』を書く。渡良瀬川の鉱毒事件被害地視察に関し、父と対立し広島県尾道市に移る。『暗夜行路』の前身になる『時任謙作』に着手した。1914年、京都に移る。反対を押して、実篤の従妹・勘解由小路康子(かでのこうじ さだこ)と結婚し、円山の「左阿彌」で挙式した。1917年、父と和解し『城の崎にて』『和解』などを書いた。1921年、構想から25年をかけ唯一の長編小説『暗夜行路』(1921-1937)を執筆し始める。小説は、近代日本文学の代表作の一つに挙げられた。1941年、芸術院会員になる。1949年、文化勲章を受章した。墓は青山墓地(東京)にある。
 「小説の神様」といわれた。芥川竜之介、反発した太宰治、織田作之助などにも影響を与えた。私小説、心境小説のほか、客観小説にも定評があった。文体は近代散文の典型とされる。
 京都での転居先は、1914年9月、宍道湖畔の寓居より京都に移り、当初は上京区南禅寺町北の坊に住んだ。その後、1915年1月、上京区一条御前通西五丁目衣笠園内、その後、鎌倉、群馬、千葉を経て、1923年3月、上京区粟田口三条坊町、1923年10月、宇治郡山科村に住んだ。その後、1925年4月、奈良に移っている。
◆竹内勝太郎 近代の詩人・竹内勝太郎(たけうち かつたろう、1894-1935)。京都市生まれ。清和中学中退後、1913年、上京した。1918年、京都の日出新聞記者になる。詩作し、1924年、「光の献詞」「讃歌」を刊行。京都市私立基督教青年会夜学校でフランス語を学び、ポードレールの詩を訳した。1928年、刊行の「室内」で詩人になる。1928年-1929年、渡仏し、ヴァレリーに傾倒する。帰国後、京都美術館嘱託になる。1931年、「明日」、1934年「芸術民俗学研究」「芸術論」を刊行した。
 象徴主義の現代詩を確立した。晩年の弟子に野間宏、富士正晴らがいる。著『竹内勝太郎全集』など。
◆明石国助 近現代の染織工芸研究家・明石国助(あかし くにすけ、1887-1959)。京都生まれ。明石博高(ひろあきら)の3男。京都高等工芸(現京都工芸繊維大)卒、同校助教授を経て鐘淵紡績に入る。後に工場長になる。戦後、母校・京都市立美大の講師、文化財保護委員会専門委員などを務めた。号は染人。著『日本染織史』など。
◆旧居・山科の記憶 志賀直哉は、詩人・竹内勝太郎(1894-1935)の紹介により、1923年10月、京都の粟田口三条から居をこの地に移した。なお、紹介者は明石国助だったともいう。
 直哉は、1925年4月まで住し、その後は奈良に移った。邸宅には、細い土橋があり、硝子戸、池庭のある一軒家だったという。直哉は、四ノ宮川向うの家に飲料水をもらいに出かけていたという。いまも井戸は残る。
 山科の地で、『転生』(発表年1924年3月)、『冬の往来』(1925年1月)、『黒犬』(1925年1月)、『弟の帰郷』(1926年1月)を書いている。
 京都在住時に直哉は、祇園花見小路の茶屋仲居と関係があった。山科の住まいをもとに、「山科もの」といわれた短編作品を書いている。『瑣事』(1925年9月) 、『山科の記憶』(1926年1月) 、『痴情』(1926年4月) 、『晩秋』(1926年9月) の4作品だった。
 『山科の記憶』は、心境小説の一典型とされている。夫には「女」の存在があり、妻には過去の疑似恋愛がある。互いに容れ難い関係にあった。「山科川の小さい流れについて来ると、月は高く、寒い風が刈田を渡って吹いた」と記されている。(『改造』)
四ノ宮川 四ノ宮川(しのみやがわ)は、山科の北部を流れている。源流は如意ヶ岳の南斜面にある。四ノ宮、竹鼻を北東から南西に流れ下る。最後は音羽川と合流して山科川と名を変える。
 なお、四ノ宮河原(しのみや がわら)と呼ばれた河原が、山科盆地の東北部、諸羽神社付近にあったという。現存していない。「袖河原(そでがわら)」とも呼ばれた。『宇治拾遺物語』には「四の宮川原」と記され、河原には「袖くらべ」という商人が集まったという。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 碑文・副碑文、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都大事典』『山科事典』『京都山科 東西南北』、ウェブサイト「志賀直哉 山科ものノート-痴情を中心にして- 成蹊國文 第四十九号」、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 志賀直哉旧居跡  〒607-8084 京都市山科区竹鼻立原町
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