吉益東洞宅跡 (京都市中京区)  
The ruins of residence of Yoshimasu,Todo
吉益東洞宅跡 吉益東洞宅跡
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「名医 吉益東洞宅蹟」の石標


「名醫(医)」と刻まれている。
 東洞院通竹屋町下ル東側の竹間公園内に、「名医 吉益東洞宅蹟(めいい-よします-とうどう-たくあと)」の石標が立てられている。
 この地に、江戸時代中期の医者・吉益東洞の宅地があった。
◆歴史年表 江戸時代、1749年、吉益東洞は、47歳(45歳とも)で東洞院に移転した。通り名に因んで名を東洞に改めている。
 近代、1929年、京都史蹟会により石標が立てられた。
◆吉益東洞 江戸時代中期の医者・吉益東洞(よします-とうどう、1702-1773)。名は為則、字は公言、通称は周助、号は東庵など。安芸(広島県)生まれ。父は医師・畠山重宗、母は花。吉益南涯(なんがい)の父。初め兵法を学んだ。1721年、19歳で医を志し、能津祐順の吉益流金瘡(きんそう、刀傷の治療をする外科)、産科を学ぶ。30歳頃、万病一毒説を立てた。1738年、37歳で堀景山を頼り上京した。万里街春日小路南に移り、漢方医で古医方を唱えた。後藤艮山に師事する。曾祖父の姓・吉益に復した。医業は振るわず、人形造り、鉢皿を焼くなどの内職をした。1746年、44歳で古方派の名医・山脇東洋に見いだされ世に知られた。1749年、47歳/45歳で東洞院に移転し東洞と名乗った。
 古医書を読破し観察を根拠にした。全ての病気は一つの毒によって起こり、薬(毒)で排除するという「万病一毒説」、後世(ごせい)家医方を排し、漢代の張仲景の説に帰ることを唱えた「古医方」などを唱えた。以後、日本漢方の身体所見を重視する「方証相対」が普及した。医論集『医断』などを著す。古医方派医学四大家の一人。弟子に村井琴山、岑少翁、中西深斎、華岡青洲などがある。
 墓は東福寺・荘厳院(東山区)にある。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都大事典』、『京の医学』、ウェブサイト「医学会総会余禄-京の吉益東洞 」、「漢方医人列伝 『吉益東洞』」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 吉益東洞宅跡 〒604-0884 京都市中京区塀之内町 竹間公園内
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