荘厳院 〔東福寺〕 (京都市東山区)
Shogon-in Temple
荘厳院 荘厳院 
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「吉益東洞先生墓」の石標


本堂



南指亭(数奇屋)



弁天堂
 東福寺の境内に塔頭の荘厳院(しょうごんいん)がある。末寺40余か寺を有する。近年、境内での「樹木葬」を行っている。 
 臨済宗東福寺派。本尊は釈迦如来。
◆歴史年表 法性寺五大堂の一つ、潅頂院(かんじょういん)が前身になる。
 鎌倉時代、1274年、文永年間(1264-1275)とも、南山士雲(なんざん しうん)が開山となる。密教の伝法灌頂堂の東福寺荘厳蔵院を禅刹に改め大年山荘荘厳院(だいねんさんぞうそうごんいん)と号した。東福寺塔頭となり、南山の存命中に、全国に164の末寺を有した。
◆南山士雲 鎌倉時代の臨済宗・南山士雲(なんざん しうん、1254-1335/1336)。遠江の生まれ。円爾について出家、大休正念、無学祖元に参じる。円爾から無準師範より伝わる法衣を授けられた。1297年、博多・承天寺の住持、1310年、東福寺11世。足利尊氏の要請により鎌倉に入り、崇寿寺、寿福寺を開き、建長寺20世、円覚寺11世。東福寺荘厳蔵院を塔所に改め退居した。臨済宗聖一派、聖一派の2大門派のひとつ荘厳門派を興す。
◆吉益東洞 江戸時代中期の医者・吉益東洞(よします とうどう、1702-1773)。広島に生まれる。父は畠山重宗、母は花。19歳で医を志し、能津祐順の吉益流金瘡産科を学ぶ。1738年、37歳で堀景山を頼り京都万里街春日小路南に移り、漢方医で古医方を唱えた。44歳で医師・山脇東洋を知り、47歳で東洞院に移転した。万病一毒説を唱えた。医論集『医断』などを著す。弟子に華岡青洲がある。東福寺・荘厳院に葬られる。
◆吉益南涯 江戸時代の医師・吉益南涯(よします なんがい、1750-1813)。吉益東洞の子。医業をつぐ。1788年、天明の大火で大坂に移り、後に京都に戻る。父の万病一毒説を修正し気血水説を唱えた。東福寺・荘厳院に葬られる。
◆中西深斎 江戸時代中期の医者・中西深斎(なかにし しんさい、1725-1803)。京都に生まれる。父は宗律、母は高谷氏。江戸で鵜殿士寧らと研鑽、京都の医師・吉益東洞により医に移し門下となる。30年をかけ『傷寒論弁正』『傷寒名数解』を著す。東福寺・荘厳院に葬られる。
◆中西鷹山 江戸時代後期の医師・中西鷹山( なかにし ようざん、1772-1827)。中西深斎の子。父に学び、父の「傷寒論」を研究、発展させ「傷寒論弁正箋注(せんちゅう)」を著す。東福寺・荘厳院に葬られる。
◆柏淵石門 江戸時代の兵法家・柏淵石門(生没年不詳)。有儀公象。父・平治の次男。大垣藩士・正木太郎太夫利充に師事、1761年、禁闕護衛の興力。剣槍の門弟数百に及ぶ。没後門人により「武功論」5巻が上梓された。東福寺・荘厳院に葬られる。
◆建築 山門、本堂がある。
 南指亭(数奇屋)は、近代、1941年の竣工による。南指亭は東福寺住山止渇大和尚の命名、扁額もその真蹟による。
◆弁天堂 鎮守社の弁天堂は、元池東にあり、木彫極彩色の十二童子を祭神とする。
◆文化財 南山士雲像がある。
◆蹲 蹲(洗玉)は、かつて通天橋橋脚の礎石であり、洗玉潤中に埋没していた。その後の洪水で流され、通天下流で露出した。本寺より下付され蹲に造り変えられる。
◆岩 山門内の両脇にある双峨石(蝦蟇石)は左右に蛙の形をした大石であり、豊臣秀吉の寄進によるという。
 庭園の池向こうの林丘に、臥した猪のような巨石、獅子巌がある。
◆墓 祥勝塔(開山塔)(重要美術)は南山士雲の石塔が立つ。鎌倉時代の無縫塔で、石柱に四天王を浮刻し、基壇は八角持運式による。
 江戸時代の医師・吉益東洞、その長男で医師・吉益南涯、三男・吉益巌斎、吉益北洲(1786-1857)、一門の墓碑、東洞高弟・中西深斎、その子で医師・中西鷹山(1772-1827)、兵学家・柏淵石門の墓などがある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『旧版 古寺巡礼京都3 東福寺』『京都の禅寺散歩』『高田人物誌』『増補版 京都の医史跡探訪』


   関連・周辺東福寺      周辺      関連      

双峨石(蝦蟇石)

獅子巌

蹲(洗玉) 

樹木葬地
荘厳院 〒605-0981 京都府京都市東山区本町15-806  
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