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亀山稲荷神社・亀山藩京屋敷跡 (京都市下京区) Kameyama-inari Shrine |
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亀山稲荷神社・亀山藩京屋敷跡 | 亀山稲荷神社・亀山藩京屋敷跡 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 白瀧大明神 ![]() 花月大明神 ![]() 丹波国亀山藩京屋敷跡の石標 ![]() 手水舎 ![]() ![]() ![]() 本殿 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「街角に残せし昔木の実 賛郎」? |
松原通室町西入北側に、亀山稲荷神社(かめやま-いりなり-じんじゃ)が祀られている。 鳥居脇に「丹波国亀山藩京屋敷跡」の石標が立つ。この地に、江戸時代には、芸州広島藩京屋敷、その後、丹波国亀山藩京屋敷跡が置かれた。神社は藩邸内の鎮守社とみられる。 亀山稲荷神社の祭神は、白瀧大明神(しらたき-だいみょうじん)、花月大明神(かげつ-だいみょうじん)になる。諸厄除災・商売繁昌・家庭円満の信仰を集めている。 ◆歴史年表 江戸時代前期、この地には、芸州広島藩42万石の浅野氏松平安芸守の京屋敷があった。間口11間、奥行き30間あった。 1730年頃、丹波篠山藩・松平信岑(のぶみね)の京屋敷になる。亀山稲荷神社は、松原邸(京屋敷)鎮守の神として祀られた。 1748年、信岑は、丹波亀山藩に転封になる。京屋敷は同藩邸になる。以降、歴代亀山藩主は、幕府の要職になる。京都火消役に就き、譜代大名として京都監視の重責を担う。 1788年、天明の大火で、松平信道は防火活動に出動した。藩邸は焼失している。土蔵は焼失しなかったともいう。 1830年、旧7月、京都大地震(文政の大地震)で、火の見櫓が破損する。(『京都地震実録』) 近代、近代、明治期(1868-1912)以降、亀山稲荷神社は中野之町(なかののちょう)が奉祀した。 1870年、2月、民有地になる 1874年、旧京屋敷3棟は、稲荷焼で類焼した修徳小学校の仮校舎に使用された。 1892年、旧京屋敷棟は京都市第二高等小学校の校舎建設まで存続する。 1916年、現在地に、旧亀山藩士有志により碑が立てられた。 現代、1995年、中野之町町内会により石標が立てられた。 ◆松平 信岑 江戸時代中期の大名・松平 信岑(まつだいら-のぶみね、1696-1763)。詳細不明。男性。又七郎。父・松平信庸(のぶつね)の長男。1717年、丹波篠山藩藩主・松平(形原、かたのはら)家5代になる。奏者番、寺社奉行を務めた。1748年、丹波亀山藩に転封になり、丹波亀山藩藩主・松平家初代になる。67歳。 ◆松平 信道 江戸時代中期の大名・松平 信道(まつだいら- のぶみち、1762-1791)。父・松平信直の長男。1781年、丹波亀山藩(京都府)藩主・松平(形原[かたのはら])家3代になる。奏者番、寺社奉行になる。松平定信の側近として活躍した。1788年、天明の大火で防火活動で活躍した。30歳。 ◆亀山稲荷神社 亀山稲荷神社は、亀山藩京都松平邸の鎮守神として祀られていた。祭神は白瀧大明神(しらたきだいみょうじん)、花月大明神(かげつだいみょうじん)になる。諸厄除災、商売繁盛、家庭円満の信仰がある。 かつて、両祠があり、江戸時代より崇敬され亀山講もあった。近代、明治期(1868-1912)以降は、中野之町が奉祀した。 祭礼として、正月祭、初午祭、火焚祭を執行した。 ◆亀山藩 亀山藩は、江戸時代に丹波国桑田郡亀山に藩庁があった譜代藩になる。藩領は桑田・船井郡、氷上郡、備中玉島にあった。江戸時代前期、1609年、下総国山崎藩の岡部長盛(1568-1632)が入り始まる。以後6大名が藩主になる。江戸時代中期、1748年、松平(形原、かたのはら)信岑(のぶみね)が丹波国篠山藩から入る。以後、近代まで松平氏8代が続く。1867年、京都市中取締役を務める。 近代、1868年-1869年、戊辰戦争では、藩は山陰道鎮撫使・西園寺公望に対し無血開城する。1869年、版籍奉還の際に「亀岡藩」に改称した。1871年に廃藩置県になる。 旧藩からは、思想家・石田梅岩(1685-1744)、医師・山脇東洋(1706-1762)、画家・円山応挙(1733-1795)らを輩出した。 ◆天明の大火 江戸時代に藩は幕府により京都火消役に任じられており、京都周辺の諸藩(淀・膳所・郡山・高槻・篠山)と当番制で任に当たっていた。江戸時代後期、1788年旧2月1日より亀山藩が当番のため、亀山藩藩士らは京都に向かっていた。 同日早朝に起きた天明の大火(団栗焼け)の火の手は、午前5-6時頃にすでに鴨川を越え藩邸に飛び火していた。午前7時頃に亀山藩京屋敷(藩邸)は焼失したという。午前6時頃に藩邸から亀山藩(現・亀岡市)に火災の報告があった。火が藩邸に迫り、火消し道具を蔵から取り出せないとして、亀山から道具持参での藩出動を依頼していた。 亀山藩に藩邸より火災の一報が入ったため、藩主・松平信道(1762-1791)自らも出動した。すでに藩邸は焼失しており、拠点にするため朱雀村に向かった。急を要したため、町奉行への出動届出・場所伺を経ずに、独断で二条城に入り防火活動を行った。途中で風向きが変わり、信道は供回りの数人とともに騎馬で御所に駆け付けた。この時、立てられていた下馬札を紋付の羽織を覆ったという。本来なら下馬するところを、騎乗のままに通り抜けたという。後に、この時の信道の判断・行動は称賛され、下馬札が下賜された。(『甲子夜話』) 天明の大火により、藩邸は焼失している。幸いにも死傷者はなく、土蔵は焼け残ったともいう。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 「中野之町の駒札」、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都大事典』、『京都の歴史災害』、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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