金蓮寺 (京都市北区)
Konren-ji Temple
金蓮寺 金蓮寺 
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庫裏




弁財天社


弁財天社




前庭



石仏



五輪塔

 金蓮寺(こんれんじ)は、鷹峯の丘陵地にあり東に比叡山を望む。境内は錦綾幼稚園に隣接している。 
 かつて、錦綾山(きんりょうざん)豊国院、太平興国金蓮寺、四条道場、四条京極道場、四条朱雀浄阿弥陀仏寺などとも呼ばれた。山号は錦綾山という。これは旧地が錦小路通と綾小路通の間にあったことに因むという。
 時宗四条派の本山、本尊は阿弥陀如来坐像。
◆歴史年表 鎌倉時代、1311年、浄阿真観が後伏見上皇(第93代)の女御・広義門院藤原寧子の難産に際し、3枚の護符を与え効験があり、皇子(北朝初代・光厳天皇)が誕生した。このため、上皇から四条京極の祇陀林寺(ぎだりんじ、上京区)の地を贈られた。ここに道場を建て、錦綾山太平興国金蓮寺と寺号を改めたことに始まる。(『浄阿上人行状記』)
 1312年、浄阿に上人号が贈られ、以後、歴代の住持は浄阿弥陀仏を襲名した。以来、時宗の道場、四条道場と称され、四条派の総本山になる。
 南北朝時代、1340年、阿弥陀仏御堂の柱立になる。宗教行事「日中」が行われている。(『師守記』)
 1343年、阿弥陀経読誦、曲舞が行われる。(『祇園執行日記』)
 1356年、1357年とも、武将・佐々木高氏(導誉)は、元弘依頼の一族の戦死者を弔うため、四条京極の宅地の南隣の私領を寄進する。(「金蓮寺文書」)。早歌、舞が境内で催されている。境内は芸能披露の場にもなっていた。
 1366年、別時念仏会が執り行われる。(『吉田家日次記』)
 1372年、歳末別時念仏会が執り行われる。(『祇園社家記録』)
 1387年、室町幕府第3代将軍・足利義満は佐々木高氏が寄進した寺地安堵の御教書を下す。(「金蓮寺文書」)
 室町時代、1409年、七条道場金光寺(遊行派)との対立により焼失する。(『東寺王代記』)
 1420年、連歌が行われた。(『看聞日(御)記』)
 1424年、七条道場金光寺との対立により焼失する。前第4代将軍・足利義持が七条道場末寺と勧告したため、信徒が7代・浄阿を高野山に追放し火を放った。(『東寺王代記』『看聞日記』『満済准后日記』)
 1430年、足利義政(後の8代将軍)は、7代・浄阿と連歌を催す。(『満済准后日記』)
 1436年、焼失する。(『看聞日記』)
 1463年、四条道場と七条道場の本末争いは足利義政の母・勝智院の葬儀の際にも起こる。(「蔭涼軒日録」)、以後も足利家歴代の葬儀の際に確執が続いた。
 1470年、焼失する。(『後鑑』)
 1480年、踊念仏を大納言宣胤が見物する。(『宣胤卿記』)
 1489年、9代将軍・足利義尚の葬儀が行われる。七条道場側は参加しなかった。(『蔭涼軒日録』)
 1490年、元6代将軍・足利義政の荼毘が行われる。その後、七条道場でも行われる。(『後鑑』)
 1517年、鷲尾隆景が踊念仏を見物する。(『二水記』)
 1538年、時宗の宗教行事「賦算」が行われる。「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した札を配る。(『親俊日記』)
 1548年、13代将軍・足利義輝は祇園会を見物した。(『畿内兵乱記』)
 1554年、第105代・後奈良天皇は、四脚門建立を勅許する。
 1564年、公家・山科言継が踊念仏を見物する。(『言継卿記』)
 1573年、上洛する織田信長の先陣地になる。(『兼実卿記』)
 1578年、焼失する。(『信長公記』)
 1591年、豊臣秀次は、境内地子の替地として山城西院に23石を与えた。
 江戸時代、1652年、類焼する。
 1737年、正栄寺・惠観が32代・浄阿に就く。
 1739年、時宗、浄土宗、禅宗の兼学になる。このため反対する者は寺社奉行に訴え、惠観は引退に追い込まれる。(「円福寺文書」)。当時は寺運隆盛で、時宗四条派四本寺として塔頭18、全国に末寺25寺、23石の朱印地を有していた。(「時宗四条派本末帳」)
 1788年、天明の大火により焼失している。
 1825年、覚山が再興する。だが、境内地の売却が続く。
 1864年、元治大火(禁門の変)で類焼する。
 近代、1928年、1930年とも、繁華街になる新京極が造成され、旧地(中京区中之町)より現在地(北区鷹峯)に移転した。旧地にいまも塔頭の一つだった染殿院が残る。
◆浄阿真観 鎌倉時代末期-南北朝時代の時宗の僧・浄阿真観(1275-1341)。浄阿弥陀。上総国の生まれ。父は牧野頼氏。19歳で出家、諸国行脚し、鎌倉極楽寺・忍性から戒律、紀伊国・興国寺の心地覚心より禅を学ぶ。熊野新宮で霊告を受け一阿と改めた。1300年、上野国板鼻で時宗遊行上人第2世・他阿真教の弟子になる。相模国・当麻無量光寺に住した。1309年、上洛し祇陀林寺の釈迦堂(上京区)に住した。1311年、後伏見天皇女御・広義門院藤原寧子の安産の霊験があり、男児(後の光厳院)誕生により土地寄進を受け祇陀林寺を金蓮寺と改めた。連歌師。時宗四条派の祖。
◆西園寺寧子 鎌倉時代-南北朝時代の女性・西園寺寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、1292 -1357)。父は左大臣西園寺公衡、母は藤原兼子。1306年、女御として持明院統の後伏見上皇(第93代)の後宮に入る。1309年、第95代・花園天皇の准母、従三位に叙せられ、准三后・院号(広義門院)の宣下を受けた。1313年、量仁親王(後の北朝初代・光厳天皇)、1321年、豊仁親王(後の北朝2代・光明天皇)を産む。南北朝時代、天皇不在になった際に、幕府は広義門院に懇願し、上皇代理として伝国詔宣を行う。女性で皇室出自ではなく治天の君(国王)の座に就いた唯一の例になる。1353年、北朝4代・後光厳天皇へ政務権継承後も、院政により影響を持ち続けた。
◆十住心院 十住心院(じゅうじゅうしんいん)は、18の子院のうちの一つであり、空海(774-835)が『十住心院』を講じたという。
 1388年、3代将軍・足利義満(1358-1408)により付属される。天台宗の僧で連歌師・心敬(しんけい、1406-1475)が一時住した。
◆文化財 14世紀初めの「一遍上人絵伝」(20巻)がある。ただ、金蓮本は後代の写しと見られている。
 「浄阿上人伝」「浄阿上人絵詞伝」。
 「一遍上人縁起」は、素眼法師筆、1593年の豊臣秀吉の副書が付く。
◆杜鵑松 境内にかつて、杜鵑松(とけんしょう)という名木があったという。京都のホトトギスは、まずこの木の枝に来て鳴き始めた。第6代将軍・足利義教(1394-1441)も初声を聞きに来たという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本地名大辞典 京都府 上』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『新版 京のお地蔵さん』『京都大事典』『京都 歴史案内』


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 金蓮寺 〒603-8445 京都市北区鷹峯藤林町1-4   075-491-0674
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