芭蕉堂 (京都市東山区)
Hermitage of Basho-do
芭蕉堂 芭蕉堂
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芭蕉堂




芭蕉堂、扁額「芭蕉桃青堂」


芭蕉堂


芭蕉堂


芭蕉堂、芭蕉木像





 円山公園の南に茅葺の芭蕉堂(ばしょう-どう)が建つ。小堂は西行、芭蕉ゆかりの地に建てられている。堂の東隣に西行堂が建つ。  
 堂内には、蕉門十哲の一人・森川許六が刻んだ芭蕉の小像を安置する。
◆歴史年表 鎌倉時代初期、歌僧・西行(1118-1190)は、この地の双林寺の阿弥陀房を訪ねた。
 江戸時代、1691年、俳人・松尾芭蕉は西行を慕い、双林寺、この地を訪れている。
 1783年、加賀の俳人・高桑闌更(たかくわ-らんこう)は、双林寺よりこの地を借り、草庵「南無庵」を結ぶ。
 1786年、闌更は、芭蕉を偲んで芭蕉ゆかりの地、南無庵の南に「芭蕉堂」を建立する。
◆松尾芭蕉 江戸時代前期の俳諧師・松尾芭蕉(まつお-ばしょう、1644-1694)。名は宗房、幼名は金作、通称は七郎、甚七郎、忠右衛門、藤七郎、俳号は宗房、桃青、芭蕉、別号は釣月軒、泊船堂、風羅坊坐興庵、栩々斎(くくさい)、花桃夭、華桃園、泊船堂、芭蕉洞、芭蕉庵、風羅坊など多数。伊賀国(三重県)上野/柘植(つげ) の生まれ。士分待遇の農家・松尾与左衛門の次男。1656年、 父が亡くなる。1662年、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将・藤堂新七郎良精家の若殿・良忠(俳号は蝉吟)に料理人として仕える。京都の北村季吟に俳諧を学んだ。俳号は宗房を使う。1666年、良忠の死により仕官を退き、俳諧に入る。1672年、『貝おほひ』を上野天満宮(上野天神宮)に奉納した。1673年、江戸に出て、水道修築役人になり俳諧師の道を歩む。其角が入門する。延宝年間(1673-1681)、談林俳諧に傾倒した。1675年、西山宗因を歓迎する句会に出席した。この頃、俳号「桃青」を使う。1677年、俳諧の宗匠になった。1680年、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行した。宗匠を辞し、深川に草庵「芭蕉庵」を結ぶ。1682年、江戸の大火で庵の焼失後に、甲斐国・高山糜塒を頼る。1683年、母が故郷で亡くなる。新しい芭蕉庵へ入る。1684年、「甲子(かっし)吟行」に出る。母の墓参りで伊賀へ帰った。名古屋の連衆と「冬の日」の歌仙の句会を行う。1685年/1686年頃、「野ざらし紀行」に出た。1685年、伊賀、奈良、京都、大津、名古屋、木曾路を経て江戸へ帰る。1686年、 「古池や蛙飛び込む水の音」を発句した。1687年、曾良・宗波と鹿島神宮へ詣でる。(『鹿島詣』「鹿島紀行」)。1687年/1688年、「笈の小文」の旅へ出立し、名古屋を経て伊賀へ到着した。1688年、藤堂良忠の子・良長に招かれる。伊勢神宮へ参詣し、万菊丸(杜国)と吉野へ向かう。越人と名古屋から信州更科へ「更科紀行」に出る。1689年、曾良を伴い「おくのほそ道」へ出て、大垣に到着した。1690年、大津の「幻住庵」に入る。1691年、伊賀で「山里は万歳おそし梅の花」を詠む。『猿蓑』が刊行される。1692年、3度目の「芭蕉庵」に入る。1694年、『おくのほそ道』の清書本が完成した。伊賀に帰郷した。奈良から大坂で病気になり、旅の途上、南御堂前花屋の裏座敷で亡くなった。句集は『俳諧七部集』、紀行文『奥の細道』、日記『嵯峨日記』、絵の『野ざらし紀行画巻』など。51歳。
 蕉風の祖。談林俳諧、漢詩文調、破格調を経て蕉風を確立する。「さび」「しおり」「細み」を提唱した。各地を旅し名句・紀行文を残した。門人に蕉門十哲(其角、嵐雪、去来、丈草、許六、杉風、支考、野坡、越人、北枝)、ほかがある。京都での旧居は、金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨・落柿舎、円山・芭蕉堂などがある。
 遺言により、粟津義仲寺(大津市)に葬られた。命日(陰暦10月12日)を時雨忌、翁忌、桃青忌ともいう。
◆高桑闌更 江戸時代中期の俳人・高桑闌更(たかくわ-らんこう/たかくは-らんかう、1726-1798)。加賀(石川県)金沢の生まれ。号は半化坊、芭蕉堂など。和田希因に学ぶ。芭蕉を私淑した。京都に移り、医業を開く。1783年、芭蕉を偲び芭蕉堂を建立する。蕉門の句文を集め刊行した。編著『花供養』『有の儘』など。73歳。
◆森川許六 江戸時代前期-中期の俳人・森川許六(もりかわ-きょりく、1656-1715)。彦根(滋賀県)生まれ。藩士・森川與次右衛門の子。21歳で井伊直澄に仕えた。1681年、父が大津御蔵役に就き手伝う。剣術、馬術、特に槍術に通じた。漢詩をよくし、絵は狩野安信に学ぶ。和歌、俳諧は北村季吟、田中常矩などに学ぶ。1689年、家督を継ぐ。この後、近江蕉門・江左尚白に入門した。1691年、江戸・蕉門十哲の宝井其角、服部嵐雪の指導を受けた。1692年、江戸で芭蕉に入門、六芸に通じたとして「許六」の号を授けられた。画法を芭蕉に伝授したという。1693年、彦根帰郷に際し芭蕉は「柴門之辞」、俳諧奥伝書を授けた。許六は、芭蕉遺愛の桜により芭蕉像を作り、河合智月(智月尼)に贈ったという。『俳諧問答』『風俗文選』などを著した。蕉門十哲の一人。近江蕉門。60歳。
◆建築 ◈「芭蕉庵」は、江戸時代、1786年、高桑闌更が芭蕉を偲び、芭蕉ゆかりのこの地に建立した。茅葺、東屋風。
 ◈「南無庵」は、江戸時代、1783年に高桑闌更が、双林寺よりこの地を借りて結んだ。丸柱、数寄屋造。
◆木像財 芭蕉堂内には、江戸時代の蕉門十哲の一人・森川許六(1656-1715)が刻んだ芭蕉小像を安置する。
 胎内仏(24.5㎝)は芭蕉遺愛の桜の木により刻まれたという。当初は、大津・智月尼(河合智月)に与えられ、その没後は従者・宗寿尼が生国・越後に遷した。後に北陸各所を転々とし、闌更が手に渡ったという。(『拾遺都名所図会』巻二)
◆文学 鎌倉時代初期、歌僧・西行(1118-1190)は、この地の阿弥陀房を訪ねる。西行は「柴の庵と 聞くはくやしき 名なれども よにこのもしき 住居なりけり」(『山家集』) と詠む。
 江戸時代前期、俳人・芭蕉は西行を慕い、この地を訪れた。西行の先の歌を踏み、「しばの戸の 月やそのまま あみだ坊」(『小文庫』)と詠んだ。
 江戸時代中期、俳人・高桑闌更は、私淑した芭蕉を偲び、その句に因み芭蕉堂を建立している。
◆文化財 芭蕉堂文庫に「許六自筆文」、芭蕉、闌更関連の史資料などを保管する。
◆碑 「芭蕉堂建立碑」は、江戸時代後期の彦根藩儒・竜公美(1714-1792)の撰文による。
◆年間行事 花供養(4月12日)、闌更忌(6月)、芭蕉忌(翁忌、桃青忌、時雨忌ともいう。芭蕉偲び連句会、法要が行われている。)(11月12日)。  


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都大事典』、『京都大知典』、『京都隠れた史跡の100選』 、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、ウェブサイト「芭蕉翁顕彰会」、ウェブサイト「コトバンク」


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芭蕉堂 〒605-0072 京都市東山区鷲尾町523 
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