悲願寺墓地 (京都市伏見区)  
Higan-ji Temple Cemetery
悲願寺墓地 悲願寺墓地
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「悲願寺墓地」の石標


入口


入口、七字題目名号碑


龕前堂

龕前堂




行基菩薩御経塚


念佛車


念佛車


地蔵菩薩立像


六体地蔵尊


六体地蔵尊


「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑


「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑


「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑


「悲願寺昭和中興由縁之辞」碑
 伏見区下鳥羽に悲願寺墓地(ひがんじ-ぼち)がある。下鳥羽自治会墓地とも呼ばれ、下鳥羽悲願寺墓地管理委員会が管理している。
 墓地内の龕前堂(がんぜんどう)に、木造地蔵菩薩立像が安置されている。墓地に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑が立つ。
◆歴史年表 詳細不明。
 奈良時代-平安時代、天平年間(729-749/710-794)、悲願寺墓地は行基(668-749)により開闢(かいびゃく、開く)されたという。 
 江戸時代、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の頃(在職1680-1709)、木造地蔵菩薩立像が大修復されている。以後、墓地は寺ではないにもかかわらず、格式ある寺として悲願寺の称号を得る。
 現代、1973年、春、墓域一部の公園化が行われる。
 1984年、4月、京都市の都市計画に伴い、現在地の南に点在していた墓地が現在地に改葬された。遺骨、地蔵堂(龕前堂[がんせんどう])、六地蔵祠、墓碑なども移され落慶が催された。
行基 飛鳥時代-奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。百済系の渡来人・高志(こし)氏。河内国(大阪府)の生まれ。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受けた。畿内に道場、寺を建立し、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で、詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれた。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し太宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、第45代・聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見した。743年、東大寺大仏造営の勧進になった。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。 80/82歳。
 地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆仏像 墓地内の龕前堂に、「木造地蔵菩薩立像」(京都市有形文化財、1992年)が安置されている。鎌倉時代前期作になる。
 仏像は、旧下鳥羽村の人々によって守り継がれてきた。壬生寺の地蔵菩薩半跏像(焼失)と同じであり、腹前に裳の結び目を表している。表情は温和で、撫で肩の体型、彫りの浅い衣文線、極めて浅い全体の奥行きなどに、平安時代末期の様風を示している。
 江戸時代、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の頃(在職1680-1709)に、像は大々的に修復された。その修復分担は巻物に残されている。以後、墓地は寺ではないにもかかわらず、格式ある寺として悲願寺の称号を得たという。
◆文化財 龕前堂内に「地獄極楽絵図」、「天女舞絵図」、「再興文書」がある。
◆遺物・地蔵 墓地の北側正面入口近くに経塚、念佛車、地蔵などが祀られている。
 ◈「行基菩薩御経塚」の詳細は不明。かつて、墓地中央に立てられていたという。2019年5月に現在地に移された。
 行基が全国行脚の折にこの地に立寄り、悲願寺墓地に関わったという。その功績を後世に伝えるために経塚を立てたという。経塚内には、仏教経典を陶器に入れ埋葬しているとも、貝殻、小石に書いた経文を埋めているともいう。
 ◈「念佛車」には江戸時代、「宝暦十三年(1763年)」の銘が入る。
 摩尼(まに)車ともいう。梵字で神秘的な宝玉名の如意宝珠であり、一切の願いが自分の意のようにかなうとされる。人々の願かけを成就させる仏徳の象徴になる。2005年に6月に修復された。
 念仏を唱え、「南無阿弥陀仏」と刻まれた車部分を回転させて願い事をすると必ず成就するという 
 ◈「六体地蔵尊」が安置されている。天道の数珠地蔵、人間道の合掌地蔵、修羅道の憧幡地蔵、畜生道の錫杖地蔵、餓鬼道の宝珠地蔵、地獄道の香炉地蔵になる。
 ◈「地蔵菩薩立像」が祀られている。
◆悲願寺墓地 悲願寺墓地の詳細は不明。奈良時代-平安時代、天平年間(729-749/710-794)に、行基(668-749)により開闢されたという。「山州五十三昧ノ随一」と評された。以来、度々の退転があったという。
 江戸時代、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の頃(1680-1709)、木造地蔵菩薩立像が大修復された。以後、墓域は寺ではないにもかかわらず、格式ある寺として悲願寺の称号を得る。
 現代、1973年春に墓域の一部の公園化が行われる。1984年5月に、京都市の都市計画に伴い、東隣の現在地に墓地を移した。墓域は旧地の2倍に拡大する。南に点在していた墓石も移された。遺骨の移転改葬、墓碑の移転、無縁供養塔などを立てて整備された。六地蔵祠、地蔵堂(龕前堂)、管理休憩棟なども移転・新築され落慶が催された。 
 現在、墓地は下鳥羽自治会墓地として、各町代表らによる下鳥羽悲願寺墓地管理委員会が管理している。
◆戊辰役東軍戦死者埋骨地碑 墓地内に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑が立てられている。
 1868年1月の鳥羽・伏見の戦い後、戦死した東軍将兵(旧徳川幕府軍)の遺骸(233人)は、周辺に野晒しのまま放置されていた。この戦渦で、下鳥羽の人々も家を焼かれている。それでも人々は、引き取り手のない兵士の骸を見かねて集めた。焼け残った家の梁、柱を用いて荼毘に付した。その後、丁寧に埋葬したという。
 1984年に旧悲願寺境内の区画整理が行われる。点在していた墓も整理された。旧墓域にあった碑も、現地の墓地内に移され改葬された。
◆鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いは、新政府軍と旧徳川幕府軍との内乱だった。その後の戊辰戦争の発端になる。
 近代、1868年1月の王政復古後、新政府内部の薩長武力討幕派は、公議政体派を抑えていた。討幕派は、前江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ、1837-1913) の内大臣辞官、納地を要求した。慶喜は一旦大坂に退き、主導権回復を画策する。江戸では、討幕派の薩摩藩士・西郷隆盛(1827-1877)らが市中攪乱を行う。薩摩藩邸を焼打ちし、旧幕府側を挑発した。
 大坂城を本営にした旧幕府軍、会津藩兵・桑名藩兵側は怒りこの挑発に乗る。老中格・大河正箕を総督とし、慶喜を擁して挙兵した。1月2日、旧幕府軍幕1万5000人は、大坂から京都に進軍開始している。新政府軍側は、薩摩藩兵・長州藩兵ら4500人で迎え撃つ。
 1月3日、京都南郊の鳥羽・伏見で両軍の交戦が始まる。新政府軍は装備面で圧倒しており、1両日中に旧幕府軍は退却し始めた。1月6日、旧幕府軍の大敗は決定的になり、慶喜は海路で大坂から江戸へ逃れ帰った。
 その後は、新政府内の討幕派が主導権を握る。2月9日、慶喜追討軍の軍事行動が起きる。有栖川宮熾仁(ありすがわのみや-たるひと、1835-1895)親王を東征大総督に任じ、戊辰戦争が勃発した。1869年5月の箱館・五稜郭の戦まで戦闘は続く。旧幕府軍の榎本武揚(1836-1908)軍が降伏し、内戦は終結した。
◆年間行事 龕前堂の開帳(正月、春の彼岸、お盆、秋の彼岸)。


*年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。
年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 「悲願寺昭和中興由縁之辞-悲願寺墓地管理委員会・移転実行委員会」、悲願寺墓地管理委員会の説明板、「悲願寺墓地だより第6号-悲願寺墓地管理委員会」、京都市の駒札、「朝日新聞 2018年9月25日付」、ウェブサイト「京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 悲願寺共同墓地  〒612-8488 京都市伏見区下鳥羽東柳長町(ひがしやなぎおさ-ちょう)46
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