三条天皇 北山陵 (京都市区)  
Imperial mausoleums of Emperor Sanjo
三条天皇 北山陵  三条天皇 北山陵 
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三条天皇 北山陵」の石標




一条天皇、三条天皇火葬塚
 衣笠西尊上院町(きぬがさ にしそんじょういんちょう)に、北山陵(きたやま の みささぎ)がある。
 平安時代中期の第67代・三条天皇(さんじょう てんのう)が葬られている。近くに、三条天皇、第66代・一条天皇の火葬塚も残る。
◆歴史年表 平安時代、1017年、5月9日(新暦6月5日)、三条天皇は亡くなる。5月12日夜、入棺された。船岡山の西石陰(いわかげ)で火葬にされる。北山の小寺中に埋納された。円墳で南面していた。
 その後、陵所は不明になる。
 江戸時代、1862年-1863年、文久の修陵 では陵に決定されなかった。
 近代、1889年、6月、尊上院(そんじょういん)の現在地に決定した。修陵が行われた。
◆三条天皇 平安時代中期の第 67代・三条天皇(さんじょう てんのう、976-1017)。居貞 (おきさだ) 。法名は金剛浄。第63代・冷泉天皇の第2皇子、母は太政大臣・兼家の娘・贈皇太后・藤原超子(ちょうし/とおこ)。986年、従弟の第66代・一条天皇の即位により元服し、立太子になる。親王の方が年長のため、「さかさ儲けの君」と呼ばれた。1011 年、一条天皇の譲位により36歳で即位する。1012年、内覧(ないらん、太政官から天皇に奏上する文書をあらかじめ内見し、政務を代行する)になった藤原道長が権力を掌握する。天皇は道長をはばかり、その娘・妍子(けんし)を皇后にする。藤原済時の娘・女御・娍子(じようし)は中宮に立てた。天皇は、娍子を皇后にしようとする。道長は反発し、他の公卿とともに参内せず、立后の儀を妨害した。道長は娘・彰子の産んだ外孫・敦成(あつひら)親王の即位を望み、天皇の眼病を理由に譲位を迫る。天皇は皇女・禎子(ていし)内親王を道長の息・頼通(よりみち)に降嫁させることで懐柔しようとした。1016年、天皇は、娍子が産んだ第1皇子・敦明(あつあきら)親王を皇太子にすることを条件に、敦成親王(第68代・後一条天皇)に、道長の枇杷殿で譲位した。敦明親王は道長の圧力により辞退する。
 歌に優れ『百人一首』に「心にも あらでうき世に ながらへば恋しかるべき夜半の月かな」がある。ほとんど目の見えなかった天皇の眼病について、毒(仙丹、水銀)を服されたともいう。僧・賀静、藤原元方の怨霊によると噂された。
 1017年、死去し、船岡山で火葬にされ北山に埋納された。陵墓は北山陵(北区)になる。
◆陵墓 陵は円丘であり、南西面している。
 
平安時代、1017年5月9日(新暦6月5日)に、三条天皇は亡くなる。5月12日夜、入棺された。船岡山の西石陰で火葬にされる。北山の小寺中に埋納される。円墳で南面していた。その後、陵の所在地は不明になる。江戸時代、1862年-1863年、文久の修陵では陵に決定されなかった。
 近代、1889年6月、地名「尊上院(そんじょういん)」の現在地に決定する。尊上院とは三条院の転訛ともいう。この時、修陵が行われた。
 北東近くに一条天皇・三条天皇火葬塚(北区衣笠鏡石町2-14)がある。


63 冷泉天皇 (在位:967-969)→64 円融天皇 (在位:969-984)→ 65 花山天皇 (在位:984-986) →66 一条天皇 (在位:986-1011) →67 三条天皇 (在位::1011-1016) →68 後一条天皇 (在位:1016-1036)

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 三条天皇 北山陵 〒603-8456 京都市北区衣笠西尊上院町
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