和泉式部塚 (京都市右京区)
grave of Izumishikibu
和泉式部塚 和泉式部塚 
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和泉式部町


和泉式部町の北西にある双ヶ岡

 太秦(うずまさ)和泉式部町(いずみしきぶちょう)には、かつて平安時代の歌人・和泉式部の塚があったという。その後、町名の由来になったとされる。現在、塚は失われている。 
◆歴史年表 かつて、この地は字和泉式部(あざ  いずみしきぶ ちょう)と呼ばれていた。
 鎌倉時代中期、円覚(1223-1311)がこの付近に法妙寺を開く。
 江戸時代、1702年、和泉式部の塚は槲(かしわ)の木の傍らにあったと記されている。(「山州名跡志」)
 1754年、法妙寺の円覚上人の塔旧跡に、槲の木が植えられていたという。(「山城名跡巡行志」)
 1848年、法妙寺跡に、和泉式部の塚があったと記されている。(「捜式部古墳記」)
 近代、1931年、字和泉式部より和泉式部町に町名が改められた。
◆和泉式部 平安時代の歌人・和泉式部(いずみ しきぶ、978/974?-1014?)。父は越前守・大江雅致(まさむね)、母は越中守・平保衡の娘。美貌と歌才に恵まれ、第63代・冷泉天皇の皇后・昌子に女房として仕える。20歳頃、官人・橘道貞と結婚、999年、夫が和泉守となり、娘で歌人・小式部内侍を産む。夫の任国、父の官名により「和泉式部」と呼ばれた。冷泉天皇の第3皇子・弾正宮為尊親王の寵愛を受けた。1002年、為尊親王が亡くなる。24、25歳で、夫の心離れから別居し、親から勘当された。1003年、為尊親王の同母弟・帥宮(そちのみや)敦道親王に寵愛される。その邸に迎えられ、正妃・北の方は屋敷を去る。敦道親王との間の子・永覚、1007年、敦道親王も相次いで喪う。寛弘末年(1008-1011)、一条天皇の中宮彰子に女房として出仕する。紫式部、赤染衛門とも交流した。藤原道長の計らいにより、33歳頃、丹後の守・公家・藤原保昌と再婚した。1025年、娘・小式部内侍を喪う。1036年、夫も喪う。後、出家、専意と称した。東北院内の小御堂に住し、朝夕に本尊・阿弥陀如来を詣でたという。
 王朝女流歌人の中で第一人者とされ、『拾遺集』に多数入集、敦道親王との恋を記した『和泉式部日記』、和歌『和泉式部集』などがある。中古三十六歌仙の一人。誠心院に墓とされる宝篋印塔がある。
◆円覚
 鎌倉時代中期の律宗の僧・円覚(1223-1311)。道御(どうご/どうぎょ)。大和国に生まれた。3歳で東大寺門前に捨てられる。僧に拾われ、出家得度する。1240年、唐招提寺、その後法隆寺に学ぶ。唐招提寺24世長老に就く。厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)による融通念仏執行の夢告に従い、1258年、上洛する。1258年、壬生寺で初めて融通念仏を厳修した。壬生寺を再興、法金剛院の中興の祖となる。法妙寺の開祖。勧進のため融通大念仏を行った。嵯峨・釈迦堂、法金剛院など洛中48か所の道場で融通念仏を広めた。帰依者が十万人となる毎に大斎会を設け十万上人と呼ばれた。亀山天皇は「円覚十万上人」の号を授けた。法命寺に葬られ、五位山に墓塔が立つ。
◆塚 和泉式部の塚についての詳細は不明。塚は、現在の新丸太町通の北、あるいは南にあったともいう。現在、塚はない。
 双ヶ岡に鎌倉時代の円覚(1223-1311)が法妙寺を開く。その寺跡に塚もあったともいう。塚は槲(かしわ)の木の傍らにあったともいう。
 江戸時代、法妙寺跡にあった塚の大きさは10歩四方だった。中古には小祠が建てられ、その後、廃れた。祠跡には山茶の木が植えられていた。これに絵馬を掛け、病平癒の祈願信仰があり、遠近より参詣する者があった。塚の東、双ヶ岡の南一町付近を字和泉式部と呼び慣わしたという。(「捜式部古墳記」)
 

*参考文献 『京都の地名 検証2』


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map  和泉式部町 〒616-8101 京都市右京区太秦和泉式部町
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