西宗寺 (京都市山科区)
Saishu-ji Temple
西宗寺 西宗寺
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「蓮如上人御往生之地」の石標





本堂




本堂


本堂


手水舎



手水舎「放鶯山」の水盤
 西野の西宗寺(さいしゅうじ)の門脇に、「蓮如上人御往生之地」の石標が立つ。蓮如ゆかりの寺であり、海老名(えびな)家の氏寺になる。山号は放鶯山(ほうおうざん)という。
 浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 室町時代、1481年、蓮如の弟子・浄乗は、山科本願寺寺内に西宗寺を建立した。本願寺の防御的な意味もあったという。蓮如より絵像「方便法身尊形」を下され、山科本願寺諸堂とともに建立された。この時、本願寺南殿を与えられという。以後、寺は海老名家の氏寺になる。(『西宗寺縁起』)。当初は興正寺の末寺だったという。
 1498年、病になった蓮如は、大坂より山科本願寺へ移ることを願う。浄乗は子・祐信を大坂に遣わした。この際に、蓮如は御尊影「山科蓮如上人御形見の御影」を祐信に与えたという。(『西宗寺縁起』)
 1499年、3月25日、蓮如はこの地で没したという。(『西宗寺縁起』『大谷本願寺通紀』)。荼毘所跡に廟が建てられる。
 1532年、山科本願寺退去後、海老名家は西宗寺の代々の住職をつとめ、本願寺跡地・蓮如廟所の管理を行う。(「西宗寺文書」)
 1541年、西宗寺の浄乗の子・祐信、信教という僧が斎事を行っていたと記されている。(『天文日記』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)以降、光称寺(光照寺)とともに、西宗寺は蓮如墓を管理した。
 江戸時代、1820年、光照寺が「蓮如上人御隠居旧地」の石碑を立てたため、蓮如往生地をめぐり、西宗寺と光照寺の間で訴訟がくり広げられた。(「西宗寺文書」)
◆浄乗 室町時代の僧・浄乗(生没年不詳)。浄垂、海老名五郎左衛門信忠。子に祐信。足利尊氏の幕下・海老名遠江の孫という。山科野村郷西中路の名主、地侍である信忠は、自治組織「山科七郷惣郷」の寄合いに加わる。所領地の一部(4-5丁)、屋敷を蓮如に寄進した。蓮如は山科本願寺を建立する。信忠は、蓮如の弟子になり、浄乗と称した。1481年、浄乗は西宗寺を建立した。
◆蓮如 室町時代の真宗の僧・蓮如(れんにょ、1415‐1499)。第7代・存如の長男として東山大谷に生まれた。母は祖母の侍女という。1420年、6歳で母が本願寺を去る。継母・如円の下で育つ。1431年、17歳で青蓮院で得度、中納言・広橋兼郷の猶子となる。比叡山、興福寺で修行したという。1442年、如了尼と結婚する。1449年、東国布教に出る。1457年、父の死により本願寺8世となる。1465年、比叡山衆徒により本願寺は破却された。近江に逃れる。(寛正の法難)。1468年、延暦寺は堅田を攻撃する。(堅田大責)。1468年(1469年とも)、大津近松に移り、祖像を遷す。1469年、東国に修行に出る。1471年、越前・吉崎に襲撃を避けて道場、吉崎御坊を開く。1473年『正信偈・和讃』開版。1474年、文明の加賀一向一揆が起こる。1475年、一向一揆に敗走し、河内出口に向かう。1478年、山科に移る。1483年、本願寺を再興し、山科での布教を続けた。1488年、長亨の加賀一揆が起こる。1489年、山科本願寺南殿に隠居した。1496年、大坂石山に坊舎を建て妻子と隠棲した。1499年、山科本願寺に戻り亡くなる。
 蓮如は1461年以後、現世利益ではなく、救われて仏となること、師による恩ではなく教説による仏恩を説き、布教に御文(おふみ)(御文章<ごぶ んしょう>)を用いた。「南無阿弥陀仏」などと書かれた掛け軸の御名号(おみょうごう)、門徒の組織である講、親鸞の教えの木版印刷などを通じた布教により教団の急拡大を行った。
◆本尊・書像 本堂の本尊の「阿弥陀如来立像」は、室町時代、1479年に、本願寺8世・蓮如より浄乗に下付されたという。(「本尊裏書」)
 蓮如直筆の「宗祖見眞大師の書像」、蓮如自作の木像が安置されている。
◆放鶯山 西宗寺の山号である放鶯山についての伝承がある。
 蓮如が病になりこの地、山科に移った際に、鶯でさえ「(ホーホケキョ (法を聞け)」と囀るとして、飼っていた籠の鶯を空に放ったという。
 浄乗の子・祐信は、蓮如の看病にあたった。蓮如は自らの影像「蓮如上人形見の御影」を祐信に与えたという。1532年、山科本願寺の焼討に際して、祐信は御影を地に埋めて隠した。夜半に掘り出し、宇治田原に逃れる。その後、本願寺10世・証如(1516-1554)の後を追い、大坂に無事届けたという。
◆海老名氏 東国武士・海老名氏は、相模国高座郡海老名に本拠があり、平安時代、11世紀(1001-1100)、源太郎季兼より海老名姓を名乗った。所領地は、相模国海老名、播磨国矢野荘にあった。後に門流は2つに分かれている。
 南北朝時代、海老名氏は足利尊氏の配下になる。忠景、季直などの名が残る。(『太平記』)。室町時代、足利義満時代の近習、その後、走習となる。後、山科に所領を得て移った。近代、明治期(1868-1912)まで海老名家は存続したという。(「海老名系図」)
 西宗寺の住職は、現在も海老名家による。
山科本願寺・南殿 山科本願寺は、室町時代、1478年、本願寺8世・蓮如により創建された。場所は現在の山科中央公園付近(西野陶芸沢町など6町)に存在した。1465年の大谷破却以後、北陸の吉崎より拠点を移し、15年ぶりの再建を果たす。
 山科本願寺の境内は、東西800m、南北1000mあり、周囲は土塁と濠で囲まれていた。第1郭「御本寺(ごほんじ)」には御影堂、阿弥陀堂、寝殿などが建ち並ぶ。第2郭「内寺内(ないじない)」は、その北、東、南にあり、蓮如一族ら法主家族、坊官の屋敷町、仏光寺派興正寺、経豪の寺院、多屋(他屋、たや)などにより構成された。さらに、北東の第3郭「外寺内(かいじない)」には職人・商人が住した。南端の第4郭には、蓮如上人御塚、在家信者の町屋が建ち並んだ。これらの寺内町は三重構造をなし、御本寺を守護する形をとった。御本町の西に西宗寺があり、山科本願寺の土地寄進者・海老名氏の氏寺だった。西宗寺には、本願寺の防御的な意味があったとみられている。
 山科本願寺一帯は、中世環濠城塞都市を形成した。山科本願寺は寺院であるとともに輪郭式の平城・城郭としても機能した。築城には北陸信徒が関わる。北、東、南面のそれぞれの郭と外周に、二重の土塁と濠が廻らされ、西には西宗寺が配置されていた。横矢がかかる虎口、土塁の折邪(おりひずみ、クランク形状)などの防御面も強化された。これらは、本格的な近世の城郭が現れる1世紀も前に先取していた。
 1489年、蓮如は本願寺東1㎞付近に隠居寺(光照寺付近)を設け、1499年にこの地で亡くなる。また、西宗寺で亡くなったともいわれている。隠居寺は、本願寺の北殿に対し南殿と呼ばれた。南殿は周囲200m四方あり、土塁と濠に囲まれていた。敷地内には、園池、築山、持仏堂、山水亭、台所などを備えた。
 1532年、六角氏と法華宗徒により山科本願寺、南殿も破却され焼失している。
◆文化財 「西宗寺文書」が伝わる。山科本願寺の件、近世の東西本願寺相論文書、西宗寺と光照寺の相論、本願寺の教学論争「三業惑乱」、幕末の西宗寺本堂再建勧進願、宝物展観による勧化願、寺内絵図、1480年の「蓮如御文」などが含まれている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『洛東探訪』「山科本願寺と蓮如コース参加者用資料」


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鐘楼

梵鐘

「蓮如上人放鶯の像」

「蓮如上人放鶯の像」
、鶯が放たれた後の空の鳥籠

月見石

句碑

「往生旧地 西宗寺」の石標

【参照】山科本願寺寺内町推定復元図(洛東高校本・西宗寺本より、『洛東探訪』より一部抜粋)、西宗寺は寺内町の北西端に当たる。
map 西宗寺 〒607-8348 京都市山科区西野広見町11   
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