|
|
一乗寺下り松 (京都市左京区) Ichijoji-sagarimatsu |
|
一乗寺下り松 | 一乗寺下り松 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() 4代目という下り松 ![]() 「大楠公戦陣地」の石碑 ![]() 「宮本 吉岡 決闘之地」の石碑 ![]() ![]() 【参照】八大寺神社に祀られている3代目下り松の切り株。 ![]() 【参照】諸侯屋敷・一条下り松遺跡、上京区一条通堀川東入北側、駐車場の南西角 |
一乗寺(いちじょうじ)花ノ木町の石垣の上に、一本の松が植えられている。松は、古くより旅人の目印になっていた。 「大楠公戦陣地」の石碑が立つ。松は、剣豪・宮本武蔵が吉岡一門と決闘した「下り松(降り松)」とされ、 「宮本 吉岡 決闘之地」の石碑も立つ。 ◆歴史年表 平安時代以来、付近には街道があった。北は白鳥越、東は今道越により比叡山を経て近江に通じていた。 1180年頃、「観音院の下り松、ならぬ柿の木人やどり」と詠われている。(『梁塵秘抄』) 一の谷で戦死した平敦盛(1169-1184)の遺児は、この松の下に捨てられたという。法然が若宮を拾い上げ、立派な僧に育てあげたという。(『敦盛遺児伝説』) 鎌倉時代、比叡山衆徒の神輿振で、この「さがり松」にも滞陣したと記されている。(『平家物語』) 南北朝時代、1335年-1336年、足利尊氏が第96代・南朝初代・後醍醐天皇の建武政権に対して挙兵した延元の乱(えんげんのらん、建武の乱)では、尊氏と楠木正成・名和長年の軍勢が、下り松付近に陣を構えたという。(『太平記』巻16) 江戸時代、1604年、この地の松の下で、剣客・宮本武蔵が吉岡一門と決闘したという。 近代、1920年、広島県呉の剣士・堀正平により宮本 吉岡 決闘之地」の碑が立てられた。 現代、1945年まで、初代下り松が植えられていた。その後、2代目は修学院離宮から移植されている。 1981年、3代目松が枯死する。 1982年、4代目松が植えられた。 ◆平敦盛 平安時代後期の武将・平敦盛(たいら-の-あつもり、1169?-1184)。従五位下に叙せられ、官職がなく無官大夫(むかんのたゆう)と称された。桓武平氏。父・経盛の末子、清盛の甥。1184年、一ノ谷の戦いで源義経軍に敗れた平氏は、海上へ逃れる。舟に乗り遅れた敦盛は、源氏方の武蔵国住人・熊谷直実(なおざね)に討たれた。16歳/17歳。 横笛の名手で、祖父・忠盛(ただもり)が鳥羽院より賜った名笛「小枝(さえだ)」を携えていたという。『平家物語』では、敦盛を討った直実は、人生の無常を感じ出家する。能・幸若(こうわか)舞の「敦盛」、謡曲「敦盛」、浄瑠璃「一谷嫩 (ふたば) 軍記」などの題材になった。 ◆宮本武蔵 安土・桃山時代-江戸時代前期の剣客・宮本武蔵(みやもと-むさし、1584/1582-1645)。男性。名は玄信、号は二天。美作国(岡山県)/播磨(兵庫県)の生まれ。武芸者・平田無二斎の次男ともいう。1592年頃、美作の宮本無二の養子になる。13歳/1594年、剣術に優れ、新当流の有馬喜兵衛との勝負に勝つ。以来、以後一度も負けなかったという。21歳の時に上洛した。1612年/1610年、舟島(巌流島)で佐々木小次郎と決闘し勝つ。大坂の陣(1614-1615)に参戦する。小倉藩主・小笠原忠真の客分として、1637年、島原の乱では軍監として出陣した。1640年、肥後熊本藩主・細川忠利に招かれ熊本千葉城址に住む。1643年、熊本・霊巌洞で『五巻の書(五輪書)』を書き始めた。1645年、『五巻の書』を弟子・寺尾孫之丞に譲る。著『兵法三十五箇条』。62歳。 二刀流(円明流、二天一流、宮本流)の開祖。日常での心身鍛錬、実戦での応用を説いた。書画などにも優れた。 1604年、吉岡一門との「一乗寺下り松の戦」の前に、八大神社に立ち寄ったという。武蔵は、蓮台野で道場主・吉岡清十郎を倒し、三十三間堂で弟・伝七郎を斬った。一乗寺下り松では、一門70数人を相手に戦う。武蔵は洛中を避け、東山より現れた。まず、当主・源次郎を討ち、次々になぎ倒したという。八大神社境内には、決闘した場所にあった下り松の枯死した切り株が残されている。 ◆小敦盛の伝承 『小敦盛(こあつもり)』の物語は室町時代の『御伽草子(おとぎぞうし)』にある。 平安時代後期、1184年、平敦盛(1169-1184)は一ノ谷の戦いで熊谷直実(1141-1208)に討たれた。敦盛の遺児・小敦盛は、敦盛の死後、都で生まれた。母は、源氏の執拗な探索を恐れ、生まれたばかりの若君を松の下に捨てたという。赤子は法然(1133-1212)に拾い上げられ養育される。 若君は、父母恋しさから重い病になる。法然が説法の際に、このことを話した。聴衆の一人に敦盛の妻があった。母は涙ながらに名のり、母子は再会を果たす。若君の病も回復する。 若君は、父恋しさから賀茂明神に祈願する。夢告があり、古戦場の生田の森(摂津国一ノ谷)の小御堂で、父の亡霊に会うことがかなう。若君は、その場に残された白骨を抱いて都へ帰る。若君は、母とともに出家し、父の菩提を弔ったという。 物語は、『平家物語』にもあり、室町時代に絵巻、江戸時代にも版本が出て流布した。謡曲に『生田敦盛』がある。 ◆宮本武蔵の伝承 江戸時代前期、1604年、宮本武蔵は、吉岡一門との「一乗寺下り松の戦」の前に、八大神社に立ち寄ったという。 武蔵は、蓮台野で道場主・吉岡清十郎を倒し、三十三間堂で弟・伝七郎を斬った。一乗寺下り松では、一門70数人を相手に戦う。武蔵は洛中を避け、東山より現れた。当主・源次郎を討ち、一門を次々になぎ倒したという。(豊前国小倉の手向山、「小倉碑文」、1654年)。 これらは、後世の脚色があるといわれている。吉岡清十郎と吉岡家の4代目当主・吉岡直綱(憲法、?-?)が同一人物かについても不明とされている。 一乗寺下り松についても、「一条下り松」(堀川一条下ル)が本来の下り松ともいう。現在、一条戻橋の東に、「諸侯屋敷・一条下り松遺跡」という石標が立てられている。付近に武蔵と戦った吉岡一門の道場があったともいう。 八大神社境内には、枯死した3代目下り松(クロマツ)の切り株が保存されている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『あなたの知らない京都の歴史』、『京都府の歴史散歩 上』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都 神社と寺院の森』、ウェブサイト「八大神社」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|