|
|
![]() |
|
西来院 〔建仁寺〕 (京都市東山区) Seirai-in Temple |
|
西来院 | 西来院 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「漸入佳境」 ![]() |
建仁寺境内の北東に塔頭・西来院(せいらいいん/さいらいいん)はある。建仁寺11世の「蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の寺」として知られた。 臨済宗建仁寺派。本尊は地蔵菩薩。 ◆歴史年表 室町時代、応永年間(1394-1427)、蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)により創建された。その住持寺となる。また、同年間中、道隆4世法孫・大宗□盛が清本流を再建し西来院と号を改めたという。以後、輪番寺院になる。 1454年、畠山持国が一時寓居する。 応仁-天文年間(1467-1555)、類焼する。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、再建される。(『坊目誌』) 江戸時代、1677年、現在の本堂が再建された。 1683年頃、曹洞宗の面山瑞方(めんざん ずいほう)が一時寓居する。 江戸時代末期以降、専任住職を置く。 近代、1872年、普光院が合併された。 ◆蘭溪道隆 鎌倉時代中期の禅僧・蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、1213-1278)。南宋から渡来した。大覚派の祖。諡号は大覚禅師。13歳で出家し、無準師範、北礀居簡、無明慧性の法を嗣ぐ。1246年入宋していた泉涌寺僧・月翁智鏡により来日した。筑前・円覚寺、泉涌寺の来迎院、鎌倉・寿福寺などに寓居した。執権・北条時頼の帰依を受け、1253年時頼が建立した建長寺の開山になる。元の密偵の嫌疑により伊豆に逃れ、修禅寺の改宗を行う。1259年後嵯峨上皇の詔により建仁寺に入り11世、兼宗禅から臨済禅道場に改める。建仁寺の寺号が後深草天皇の諱(いみな)、久仁の「仁」に重なることから「仁」を避け、建寧寺に改めた。鎌倉・寿福寺、鎌倉・禅興寺などの住持。一時、甲斐国に配流され、東光寺などを再興。再び建長寺に帰り同寺で没した。栄西の再来といわれた。 ◆明窓宗鑑 鎌倉時代の臨済宗の僧・明窓宗鑑(みょうそう そうかん、1234-1318)。蘭渓道隆の法嗣。武蔵・東漸寺、建仁寺の住持。諡号は明覚禅師。 ◆畠山持国 室町時代の武将・畠山持国(はたけやま もちくに、1398-1455)。父は満家。父没後、家督を継ぎ河内・紀伊・越中・山城守護職を得る。1441年将軍・足利義教の勘気を受け河内に出奔。家督は異母弟・持永に与えられた。だが、義教暗殺後、復帰する。1442年対立した管領・細川持之の病没後、管領に任ぜられた。以後、細川家との対立を深める。弟・持富を家督後継者としながら、1446年実子・義就に変えたため、畠山家分裂の因になる。 家督争いの最中の1445年建仁寺・西来院に一時寓居している。かつて、安井(東山区)辺に供養塔があったという。 ◆面山瑞方 江戸時代の曹洞宗の僧・面山瑞方(めんざん ずいほう、1683-1769)。肥後の生まれ。16歳で出家。江戸の卍山道白に参じた。損翁宗益に随い仙台・泰心院に行きその法嗣。相模・老梅庵、常陸・東昌寺、肥後・禅定寺、若狭・空印寺などの住持。若狭・永福庵に退棲した。「婆々面山」と称された。『正法眼蔵渉典録和語鈔』などを著す。 ◆普光院 塔頭・普光院は、鎌倉時代、開山を明窓宗鑑とする。1872年、西来院に合併された。 ◆文化財 蘭溪道隆坐像(像高68cm)は、銘により江戸時代前期、1676年に仏師・康乗(こうじょう)作による。像内の底部に蘭溪道隆の木製頭部(30cm)が納められていた。この頭部は道隆の存命中か、没後すぐに作られたとみられている。眼窩が開き、かつて水晶の眼が嵌め込まれていたとみられている。 安土・桃山時代(1574)、紙本墨画「織田信長朱印状」。 ◆庭 本堂の南に枯山水式庭園がある。苔に松、楓などの植栽、刈込、石などで構成されている。縁側の先、軒下にサツキの密植が一列にある。 境内にも楓があり、紅葉の頃に美しい。 *普段は非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献 『建仁寺』『京都の禅寺散歩』『建仁寺 建仁寺と栄西禅師』『京都・山城寺院神社大事典』『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』『京都秘蔵の庭』 ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |
![]() 庭園 |
![]() 坪庭 |
![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|