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龍泉庵 〔大徳寺〕 (京都市北区) Ryosen-an Temple |
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龍泉庵 | 龍泉庵 |
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大徳寺境内の北に塔頭・龍泉庵(りょうせん-あん)がある。庵には、米国人・ルース紹溪尼により日米第一禅協会が置かれ、海外での禅評価の先駆になった。 臨済宗大徳寺派、大徳寺四派の一つ、龍泉派(関東派)の本庵。 ◆歴史年表 室町時代、明応年間(1492-1501)、当初は本坊北に創建された。陽峰宗韶(ようほう-そうじょう)の開祖により、龍泉軒と称された。(『龍宝山大徳禅寺志』) 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、大用庵の寮舎として使われたとみられる。 その後、龍泉庵に改められ、大徳寺四派の一つ、龍泉派の本庵塔頭になる。 日新宗益(にっしん-そうえき、1557-1620)が再興する。 江戸時代、元和年間(1615-1624)、正清院が再興に関わる。 1636年/江戸時代(1603-1868)中期、方丈が修築される。現在地、塔頭・総見院北に移された。 近代、1868年以降、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃する。 1876年、塔頭・芳春院に合併される。 その後、廃絶する。 現代、1958年、米国人・ルース紹溪尼(佐々木ルース夫人)により再興された。 ◆陽峰宗韶 室町時代中期-後期の臨済宗の僧・陽峰宗韶(ようほう-そうじょう、1430-1512)。詳細不明。男性。京都の生まれ。春浦宗煕の法嗣。1490年頃、如意庵にあり、自適庵に移る。1504年、大徳寺70世になる。82歳。 諡号は1708年、匡宗霊慧(きょうじれいえ)禅師。大徳寺四派、龍泉派(関東派)の祖になる。法嗣に東海宗朝、千林宗桂がいる。 塔所は大徳寺・龍泉庵にある。 ◆多賀高忠 室町時代前期-後期の武将・多賀高忠(たが-たかただ、1425-1486)。男性。通称は新左衛門、号は大源。従兄で主君・京極持清に仕える。1462年、京都侍所所司代に任じられ、土一揆鎮圧、治安維持で名を挙げた。1466年、持清が延暦寺と衝突し、失脚により解任された。応仁・文明の乱(1467-1477)で、1467年、持清と細川勝元ら東軍に属し、六角高頼らを圧倒し山城・如意岳城を築いた。1469年、六角氏の本拠・観音寺城を一時制圧する。1470年、持清死後、子・政経を庇護し、1472年、政経と共に越前へ逃れる。1475年、出雲の国人を擁し再起し、六角高頼らと戦い勝利し、後に西軍の援軍に敗北した。乱終に京都で隠棲する。1485年、室町幕府により京都侍所所司代に再任され、山城国内の土一揆を鎮圧した。62歳。 有職故実に詳しく、小笠原持長に弓術を学び、弓術研究書『高忠聞書(『美人草』)』を著した。著『就弓馬儀大概聞書』など多数。和歌・連歌にも通じた。 墓は京都・宗仙寺にある。 ◆日新宗益 室町時代後期-江戸時代前期の臨済宗の僧・日新宗益(にっしん-そうえき、1557-1620)。詳細不明。男性。哦松。早雲寺に住した。大徳寺162世。63歳。 ◆正清院 安土・桃山時代-江戸時代前期の正清院(しょうせいいん、1580-1617)。女性。振姫(ふりひめ)。父・徳川家康、母・側室・穴山氏(お竹の方)の3女。1595年、豊臣秀吉の命により蒲生秀行と婚約し、1598年、輿入れする。忠郷、忠知、崇法院(加藤忠広正室)を産む。1612年、夫急逝後、忠郷と後見・振姫、家老・岡重政との間で藩政を巡り対立し、家康の命により岡は切腹になる。1615年、家康の命により浅野長晟と再嫁し、1616年、輿入れした。1617年、出産後亡くなる。38歳。 ◆紹溪尼 近現代の尼僧・紹溪尼(Ruth Fuller、ルース.フラー、1832-?)。女性。佐々木ルース。アメリカ合衆国・シカゴの生まれ。父・George E. Fuller、母・Clara Elizabeth。裕福な家庭に育ち、私立学校、ヨーロッパ留学を経て、1917年、弁護士・Edward Warren Everettと結婚した。1918年、長女Eleanor(後に哲学者、作家・Alan Watts夫人)を産む。1930年、フラー夫妻らは日本、朝鮮、中国、満州旅行し、京都で鈴木大拙、その夫人・ビアトリス、外国人参禅を奨励した円福寺・神月徹宗らを知る。1932年、来京し、南禅寺・河野霧海(南針軒)に師事した。1933年、3度目の来日する。1934年、林銑十郎に会う。1940年、夫没後、「仏教協会(First Zen Institute of America、後に美国第一禅協会、北米第一禅堂と改称)」の活動に関わる。1950年、日本に滞在する。1957年、大徳寺・龍泉庵に「日米第一禅協会」を設立した。1958年、龍泉庵を再興し、禅典籍の英語翻訳などを行う。 スナイダー、入矢義高、柳田聖山、金関寿夫らと親交した。 ◆建築 紹溪尼が起居していたという庵が残る。 ◆子院 ◈ 「太清(太清軒)」は、室町時代後期、文明年間(1469-1487)に、大徳寺45世・岐庵宗揚(ぎあん-そうよう)の創建による。安土・桃山時代、1592年、衆評により、龍泉庵宗銕が請け負う。その後、荒廃し、江戸時代前期、寛永・正保年間(1624-1648)、大徳寺175世・随倫宗宜(ずいりん-そうぎ)が龍泉庵の門右の建物を太清軒と名付け、庵号名として引き継ぎ住した。当初は龍泉派独住、後に兼帯になる。 ◈ 「雑華庵」は、榎並宗吟が父・春溪宗英のために創建した。当初は春溪庵と呼ばれ、天瑞寺の北端にあり、海室宗巨(かいしつ-そうこ)が住した。当初は龍泉派独住、後に兼帯になる。江戸時代中期、天明年間(1781-1789)に廃された。 ◈ 「清心庵」は、室町時代後期、文亀年間(1501-1504)の創建ともいう。廃され、江戸時代前期、1686年、大徳寺224世・別源宗甄(べっけん-そうけん)が再興する。江戸時代中期、安永・天明年間(1772-1789)に廃された。 ◈ ほかに「雲林院」がある。 ◆石造物 「子授け地蔵」は、地蔵尊が船形光背に2体半肉彫りされている。鎌倉時代中期、「弘長二年(1262年)」の彫銘がある。 ◆年間行事 坐禅会(毎週水-日曜日、7:00-8:00)。 *非公開 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』、『紫野大徳寺の歴史と文化』、『京都・紫野大徳寺僧の略歴』、ウェブサイト「仏教と近代」研究会 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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