龍見院 〔知恩寺〕 (京都市左京区)
Ryuken-in Temple
龍見院  龍見院
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「慶長五年八月朔日伏見城ヲ死守セル初代光忠公 龍見院殿鳥居公御菩提所 御□墓在当院墓地」





 百万遍知恩寺の塔頭・龍見院(りゅうけんいん)は境内北東にある。
 浄土宗。
◆歴史年表 江戸時代、1605年、鳥居元忠の菩提を弔うために、鳥居忠政が正蓮社文誉等賢により創建した。寺号は元忠の戒名による。等賢を院主としたという。
 1661年、大火により知恩寺は焼失し、寺も墓地も移転した。
 1701年、元忠4世の孫・鳥居忠英が墓地を改修している。
◆鳥居元忠 室町時代-安土・桃山時代の武将・鳥居元忠(とりい-もとただ、1539-1600)。通称彦右衛門。三河国に生まれた。徳川家康重臣・伊賀守忠吉の次男。1551年、駿河今川氏の人質になっていた松平竹千代(徳川家康)に仕える。1558年、家康の初陣に従う。1560年、桶狭間の戦、1561年、大高城兵糧入れ、1569年、遠江掛川城攻略、1570年、姉川の戦、1572年、家督を継ぐ。三方(味方)ヶ原の戦、1575年、長篠の戦、諏訪原城攻めなど出陣した。1582年、天正壬午の乱での戦功により、家康は甲斐国の谷村城主に任じた。1584年、小牧・長久手の戦で甲斐の守りを固めた。1586年、家康に供奉して上洛する。豊臣秀吉の推挙による諸大夫の叙任は、徳川氏臣として固辞した。1590年、小田原の役の武蔵岩槻城攻めに功をたてる。家康の関東入封に伴い、下総国矢作(やはぎ)城主になる。1600年、家康の会津出兵後、伏見城の留守居を命じられる。7月25日、五奉行中の石田三成らが家康に対して挙兵した伏見城の戦が始まる。西軍4万の大軍に対し、元忠は1800人の兵力で城に立て籠もる。8月1日、13日間の攻防の末、鈴木重朝との一騎打ちにより討死した。その際の血染めの床板は、「血天井」として各所に残る。戦は関ヶ原の戦いの前哨戦になった。62歳。
 墓は知恩寺・龍見院(左京区)などにある。
◆鳥居忠政 室町時代-江戸時代初期の武将・大名・鳥居忠政(とりい-ただまさ、1566-1628)。三河国生まれ。鳥居元忠の次男。母は形原松平家広の娘(徳川秀忠の又従兄弟)。1584年、徳川家康に従い、小牧・長久手の戦いに参加。1586年、家康に従い上洛、従五位下左京亮に叙される。1600年、父・元忠が伏見城攻防戦で討死、長兄は亡く、家督を継ぎ下総矢作藩主。1600年、関ヶ原の戦いで江戸城留守居役、戦後、父の戦功により陸奥磐城平に領地を得る。1615-1616年、大坂の陣で江戸城留守居役。1622年、最上氏の改易により出羽山形で加増移封、徳川氏の譜代大名となり、山形で没した。墓は江戸・江岸寺にある。63歳。
◆鳥居忠英 江戸時代中期の大名・鳥居忠英(とりい-ただてる、1665-1716)。信濃高遠藩第2代藩主・鳥居忠則の次男。1685年、徳川綱吉に拝謁し叙任する。1689年、父の家臣・高坂権兵衛の江戸城での罪により、父も連座し閉門を命じられた。父は急死、幕府は忠英の家督相続を認めず、所領を没収改易される。ただ元忠の戦功があり能登下村藩主、1695年、近江水口に加増移封。1705年、奏者番・寺社奉行を兼任、1711年、若年寄、1712年、加増され、下野壬生初代藩主となる。殖産興業し、藩校・学習館を創設した。52歳。
◆鳥居元忠の墓 伏見城で自害した鳥居元忠の首級は、当初、大坂方に落ち京橋口に晒された。鳥居家出入の京都の呉服商・佐野四郎右衛門は首を盗み出す。弟は僧であり、知恩寺(京極寺町)に居たため当寺に葬られた。
 後、元忠の子・忠政は、父菩提のためにその院号より塔頭・龍見院を建立したという。江戸時代、1661年の大火により知恩寺 は焼失し、寺も墓地も移転した。1701年、元忠4世の孫が改修している。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都隠れた史跡100選』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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龍見院 〒606-8225 京都市左京区田中門前町103-20  075-781-3608  
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