並河天民邸跡・講学所堀木之舎跡 (京都市中京区)
The ruins of residence of Namikawa, Temmin
並河天民邸跡・講学所堀木之舎跡 並河天民邸跡・講学所堀木之舎跡 
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「正五位 儒医並河天民講学所堀木之舎阯」の石標
 東堀川通丸太町上ル東側に、「正五位 儒医並河天民講学所堀木之舎(ほりきのや)阯」の石標が立てられている。
 この地は、江戸時代中期の儒医・並河天民の邸宅跡であり、開いた私塾跡になる。
◆歴史年表 江戸時代、1679年、並河天民が邸宅(現在地)に生まれた。
 1705年以降、伊藤仁斎の没後、その門弟(堀川学派)は、実子・伊藤東涯と並河天民に二分された。天民は邸宅で医業を開き、講学所「堀木之舎」を開く。
◆並河天民 江戸時代前期-中期の儒医・並河天民(なみかわ-てんみん、1679-1718) 。名は良弼、亮、字は伝亮、簡亮(かんすけ)、号は天房、通称は庄(正)蔵、勘介。京都横大路村生まれ。豪農の父・宗弥、母・永田氏。儒学者・並河誠所の弟。懐徳堂最後の教授・並河寒泉は孫。1691年、誠所とともに伊藤仁斎に入門し古義学を学ぶ。医学を名古屋玄医に学ぶ。1705年、仁斎の没後、「古義堂」は仁斎の子・東涯師事と天民師事とに二分された。天民は自宅に講学所の「堀木之舎」を開く。1708年頃、師・仁斎の仁義性情の説を批判し、人間主体の一元説を唱えた。孔孟の正義は経世利民(経済)にあるとした。1714年、蝦夷地(北海道)に渡ろうとし、「蝦夷地大地図」を作製する。意見書「開彊録」を幕府に提出し、蝦夷地の日本への帰属、開拓を提言した。著『兵法印可二則』『かたそきの記』など。40歳。
 古医方の先駆者になる。兵学、本草学に通じ、書経・論語・孟子に基づき、経済実用の学を志した。門下に松原一閑斎、渡辺孝恭などがいる。
 墓は清閑寺(東山区)にある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『増補版 京の医史跡探訪』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」


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並河天民講学所跡 〒 京都市中京区堀川丸太町上ル東側
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