華光寺 (京都市上京区)
Keko-ji Temple
華光寺 華光寺
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門前の地蔵尊



本堂
 七番町の華光寺(けこうじ)は、出水通に南面している。出水の毘沙門(でみずのびしゃもんさま)さまと呼ばれている。山号は華金山という。 
 日蓮宗。本尊は十界曼荼羅。
 京の通称寺霊場9番、出水の毘沙門さま。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1582年、妙顕寺12世・日堯が、羽柴(豊臣)秀吉の援助により隠居所として創建された。伏見城の一部が移築されたともいう。秀吉は伏見城に安置していた毘沙門天像を寄進し、守護神とされた。
 江戸時代以降、毘沙門天像は開運厄除けの神として信仰を集めた。
 1773年、西町奉行・長谷川平蔵の父・長谷川宣雄の葬儀が行われる。
◆長谷川宣雄
 江戸時代の京都町奉行・長谷川宣雄(はせがわ のぶお、1719-1773)。1748年、遺跡を継ぎ、1765年、御先弓頭、1772年、従五位下備中守に叙任される。華光寺に葬られる。
 長谷川平蔵の父。火付盗賊改方長官・平蔵は、池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公で知られている。
 墓は華光寺にある。
◆宇喜田一恵 江戸時代の画家・宇喜田(浮田)一恵(うきた いっけい、1795-1859)。京都に生まれる。田中訥言に絵を学び、大和絵を復興した。勤皇家であり、風刺画「妖怪草紙絵巻」では公武合体による和宮降嫁、公武合体を批判した。1858年、安政の大獄により捕らえられ、1859年釈放された。詩文、和歌に長じた。
 墓は華光寺にある。
◆平塚飄斎 江戸時代後期の儒者・平塚飄斎(ひらつか ひょうさい、1794-1875)。京都東町奉行所与力、旗本。1833年、天保の大飢饉で飢民を救済した。1859年、安政の大獄に連座、のち釈放される。山陵の研究家で、1854年、三条実万らと山陵会を創設、幕府による文久年間(1861-1863)の修陵に際し、谷森善臣らと諸陵調方を依嘱された。第121代・孝明天皇陵建設を命じられる。頼山陽らとも交流した。詩文、狂詩をよくした。徳川斉昭に著書『山陵一隅抄』を献じた。
 墓は華光寺にある。「飄飄齋獨立居士」と刻まれている。
◆毘沙門天像 豊臣秀吉は伏見城に安置していた「毘沙門天像」を寄進し、当寺の守護神にした。平安時代後期作といい、鞍馬寺の毘沙門天像と同木、同作という。
 江戸時代以降、開運厄除けの神として信仰を集めた。
◆梵鐘 「梵鐘」は、かつて丹波国(丹州)愛宕山別院・巌辺寺にあり、「丹州巌辺寺鐘」と銘がある。鎌倉時代後期、「正応元年(1288年)」、鋳物大工橘則弘作の銘もある。
 太平洋戦争中(1941-1945)の金属供出をまぬがれた。高さ102cm、口径57cm。撞座の蓮華文以外の装飾はない。
◆松・椿 鐘の下に、秀吉手植えという「時雨松(しぐれのまつ)」の古株が置かれている。晴れの日でも枝先より雫を落とし、「出水七不思議」の一つに数えられたという。近代、1912年、大正期(1912-1926)とも、までは存在し、その後、枯死した。
 五色の花をつけたという「五色椿」もあった。その後、枯死している。「出水七不思議」の一つに数えられた。
◆墓 京都町奉行・長谷川宣雄、幕末期の尊攘画家・宇喜田一恵、山陵研究家の平塚瓢斎、加藤清正の累代子孫一族の墓碑など30数基がある。
◆年間行事 毘沙門天像開帳(毎月1日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都歴史案内』


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本堂

南無妙法蓮華経、法界の石塔


毘沙門天

毘沙門天

毘沙門天

鐘楼

梵鐘

「時雨松」の古株

渡り廊下

手水舎
 華光寺 〒602-8359 京都市上京区七番町331,出水通六軒町西入北側  075-841-5807  6:30-17:00
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