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| 華光寺 (京都市上京区) Keko-ji Temple |
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| 華光寺 | 華光寺 |
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![]() ![]() ![]() 六足門 ![]() ![]() 門前の地蔵尊 ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() ![]() 南無妙法蓮華経、法界の石塔 ![]() 紅梅 ![]() ![]() 毘沙門天 ![]() 毘沙門天 ![]() 毘沙門天 ![]() ![]() ![]() 岩国大明神 ![]() 岩国大明神 ![]() 鐘楼 ![]() 梵鐘 ![]() 「時雨松」の古株 ![]() ![]() ![]() 渡り廊下 ![]() ![]() ![]() ![]() 手水舎 |
七番町(しちばん-ちょう)の華光寺(けこう-じ)は、出水通に南面している。「出水の毘沙門さま(でみず-の-びしゃもん-さま)」」と呼ばれている。山号は蓮金山(れんきん-ざん)という。 日蓮宗。本尊は十界曼荼羅。 京の通称寺霊場第9番、出水の毘沙門さま。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1582年/1583年、妙顕寺12世・日堯(にちぎょう)が、羽柴(豊臣)秀吉の援助により隠居所として創建した。伏見城の一部が移築されたともいう。秀吉は伏見城に安置していた毘沙門天像を寄進した。 江戸時代以降、毘沙門天像は開運厄除けの神・開運勝利・財運招福の信仰を集める。 1663年、現在地に移された。 1773年、西町奉行・長谷川平蔵の父・長谷川宣雄の葬儀が行われる。 ◆日堯 安土・桃山時代の日蓮宗の僧・日堯(にちぎょう、?-?)。詳細不明。妙顕寺12世。1583年、華光寺を豊臣秀吉の外護を受けて創建した。 ◆長谷川 宣雄 江戸時代中期の京都町奉行・長谷川 宣雄(はせがわ-のぶお、1719-1773)。詳細不明。男性。1748年、遺跡を継ぎ、1765年、御先弓頭、1772年、従五位下備中守に叙任される。華光寺に葬られる。54歳。 長谷川平蔵の父。火付盗賊改方長官・平蔵は、池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公で知られている。 ◆宇喜田 一恵 江戸時代後期の画家・宇喜田(浮田) 一恵(うきた-いっけい、1795-1859)。男性。名は公信、可為(よしため)。京都の生まれ。父・博文。1853年、江戸に遊学した。田中訥言に絵を学び、大和絵を復興した。ペリー来航を風刺した「神風夷艦隊を覆すの図」を描く。勤皇家であり、風刺画「妖怪草紙絵巻」では、公武合体による和宮降嫁を批判した。1858年、安政の大獄により捕らえられ、1859年、釈放された。詩文・和歌に長じた。65歳。 墓は華光寺(上京区)にある。 ◆平塚 飄斎 江戸時代後期の儒者・平塚 飄斎(ひらつか-ひょうさい、1794-1875)。男性。名は茂喬、字は士梁、別名は津久井清影。京都東町奉行所与力、旗本。1833年、天保の大飢饉で飢民を救済した。1859年、安政の大獄に連座し、のち釈放される。山陵の研究家で、1854年、三条実万、谷森善臣(たにもり-よしおみ)、平塚瓢斎らと陵墓考証の「山陵会」を創設した。幕府による文久年間(1861-1863)の文久修陵に際し、谷森善臣らと諸陵調方を依嘱された。第121代・孝明天皇陵建設を命じられる。頼山陽らとも交流した。詩文、狂詩をよくした。徳川斉昭に著書『山陵一隅抄』を献じた。『花洛名勝図絵』なども著した。82歳。 墓は華光寺(上京区)にある。「飄飄齋獨立居士」と刻まれている。 ◆仏像 ◈本堂の本尊「十界曼荼羅(じっかい-まんだら)」を安置している。 ほか、「日蓮聖人像」、「釈迦如来像」、「多方如来像」、「四菩薩像」が祀られている。 ◈「毘沙門天像」(160㎝)は、毘沙門堂の厨子内に納められている。豊臣秀吉(1537-1598)が伏見城に安置していたものを寄進し、当寺の守護神にした。平安時代後期作という。鞍馬寺の毘沙門天像と同木・同作という。甲冑を纏い右手に三叉戟(さんさげき)を執る。左手は腰に置き、足元で邪鬼を押さえつけている。木造。 江戸時代以降、開運厄除けの神として信仰を集めた。 ◆建築 ◈山門は六足門で、一般寺院としては珍しい。伏見城より移築したという。 ◈ほか、本堂、毘沙門堂、鐘楼などがある。 ◆梵鐘 「梵鐘」(京都府指定有形文化財)は、かつて丹波国(丹州)愛宕山別院・巌辺寺にあり、「丹州巌辺寺鐘」と銘が入る。鎌倉時代後期、「正応元年(1288年)」、鋳物大工・橘則弘作の銘もある。近代、太平洋戦争中(1941-1945)の金属供出を免れた。撞座の蓮華文以外の装飾はない。 銅鐘、高さ102cm、口径57cm。 ◆文化財 ◈「日蓮聖人御真筆断簡」がある。 ◈「豊臣秀吉木像」がある。 ◆松・椿 ◈鐘の下に、秀吉手植えという銘木「時雨松(しぐれ-の-まつ)」の古株が置かれていた。晴れの日でも枝先より雫を落とし、その様が時雨れているようだったという。「出水七不思議」の一つに数えられた。 近代、1912年/大正期(1912-1926)までは存在し、その後、枯死した。 ◈「五色椿(ごしき-つばき)」もあった。各枝に五色の花をつけたという。その後、枯死している。「出水七不思議」の一つに数えられた。 ◆墓 京都町奉行・長谷川宣雄、幕末期の尊攘画家・宇喜田一恵、山陵研究家・平塚瓢斎、加藤清正の累代子孫一族の墓碑など30数基がある。 ◆年間行事 毘沙門天像開帳(毎月1日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、『歴史検証 天皇陵』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『60回記念 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』、ウェブサイト「上京区役所」、ウェブサイト「コトバンク」 |
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