聖光寺 (京都市下京区)
Shoko-ji Temple
聖光寺 聖光寺 
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「鎮西聖光上人遺蹤」の石標






『仮名手本忠臣蔵』十段目、劇中で「天河(川)屋義平(あまかわや ぎへえ)は、役人の拷問にも口を割らず、「天河屋の義平は男でご座る」の科白を吐く。


赤穂義士を陰で支える 天野屋利兵衛之墓所地」の石碑



「鎮西流根本之地」の石標


本堂



本堂



本堂
 中之町に聖光寺(しょうこうじ)はある。正式には、曼陀羅院(まんだらいん)聖光寺、山号は錦綾山(きんりょうざん)という。 
 江戸時代、この付近は島原西新屋敷と呼ばれ、島原遊郭六町の一つだった。境内に、赤穂義士を支援したという商人・天野屋利兵衛(綿屋善右衛門)、播磨国赤穂藩筆頭家老・大石良雄の母の墓がある。
 浄土宗鎮西派、本尊は嵯峨式釈迦如来立像。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代後期、この地に、仏師・康慶の居宅があったという。
 鎌倉時代、1197年、筑前国の天台宗僧・聖光房弁長(鎮西上人)は、明星寺五重塔に安置する本尊の造仏に際して上洛した。仏師康慶に造像を依頼し、邸宅に寄宿する。弁長は浄土宗の法然門下になる。  
 1204年、弁長の帰郷に際し、康慶はその真影を草庵に安置、聖光庵と名付けたことに始まるという。
 その後、戦乱などで幾度か焼失したという。
 安土・桃山時代、1578年、再建され、聖光寺と改める。
 1583年、伊勢国松坂の樹敬寺・良阿により再興された。
 江戸時代、1788年、天明の大火により焼失した。その後、再建される。  
 1832年、焼失する。華頂宮尊超法親王が大施主として復興し、現在の建物が建てられる。
◆康慶 平安時代末期-鎌倉時代初期の仏師・康慶(こうけい、生没年不詳)。詳細不明。子に運慶、定覚。南都仏師の正系・康朝の弟子、また、康朝の父・康助の弟子ともいう。1152年、吉祥天像を制作。1177年、後白河法皇(第77代)の蓮華王院五重塔造仏の功により法橋の僧位を得た。1180年、平重衡の奈都の焼討ち後、興福寺復興に一門を率いて参加、南円堂の本尊・不空羂索観音像(国宝)などの造像を行い1189年、完成した。1194年以前、法眼の位を得る。1196年、最後に東大寺大仏殿の脇侍像・四天王像の造立を行う。慶派の基礎を築いた。弟子に快慶、定慶がいる。
◆弁長 安時代後期-鎌倉時代の僧・弁長(べんちょう、1162-1238)。聖光房。鎮西上人。筑前国の人。父は古川則茂。1168年、出家、1175年、観世音寺の戒壇で受戒し天台僧になった。白巌寺の唯心、明星寺の常寂 に学ぶ。1183年、比叡山東塔南谷の観叡、後に東谷の宝地房証真に師事した。1190年、故郷に戻り、鎮西の聖地・油山の学頭になる。1193年、異母弟・三明房の死後、浄土教に惹かれる。1197年、明星寺五重塔に安置の本尊造像のために上洛する。吉水禅坊の法然の弟子になり、その命で伊予国の勧化、その後、再び法然のもとで専修念仏を学ぶ。1204年、筑前に戻り、筑後国山本に善導寺、肥後国白川に往生院を開いた。1827年、大紹正宗国師の号を賜る。浄土宗鎮西派の2祖。
◆綿屋善右衛門 江戸時代の呉服商・金融蔵之立替・綿屋善右衛門(?-1708)。安田善右衛門、安田好時。室町二条に店があり、一条智恵光院に住んだ。1691年、大石内蔵助の母・お熊の方のために聖光寺の一室を借り受け、供養埋葬を行う。浅野内匠頭の蔵奉行・貝賀弥左衛門は、妻娘を伴い討入を打ち明け、妻娘の後を託したという。1702年、大石内蔵助の討入に際して小道具、装束を調達したという。大石、義士らに資金提供した。1703年、討入後切腹した貝賀の遺髪を京都・本妙寺に葬り、後にその妻・おさんも埋葬する。娘・お百は養女とし斉藤源兵衛へ嫁がせる。大石が京都・瑞光院に主君のために立てた供養碑を工面した。京都・西方寺に小野寺内父子、本妙寺に吉田忠左衛門らの墓を立てている。
 浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」(1748)では赤穂義士を支援したという義商・「天川(河)屋義平」は、綿屋善右衛門ともいう。綿屋善右衛門の墓は聖光寺にある。「仁誉貞実好山居士(安田好時之墓)」と刻まれている。
◆池田熊子 江戸時代前期の女性・池田熊子(1637-1691)。熊、くま。備前国岡山藩家老・池田由之の6女。1658年、赤穂藩浅野氏永代家老家・大石家嫡男・大石良昭と結婚した。1659年、長男・良雄、1660年、次男・専貞、1671年、三男・良房を産む。聖光寺に墓がある。松寿院。
◆尊超入道親王 江戸時代後期の皇族・尊超入道親王(そんちょう にゅうどう しんのう、1802-1852)。有栖川宮織仁親王8男。母は家女房の安藤清子。1809年、第11代将軍・徳川家斉の猶子になる。1810年、親王宣下を受け、知恩院へ入寺、得度、福道と称した。1817年、二品に叙せられた。知恩院の門主に就く。江戸の徳川家慶、その子・家祥らに授戒した。後に第120代・仁孝天皇、第121代・孝明天皇にも授戒した。知恩院家来・池内大学に漢学を学び、文才に優れたという。一心院内、知恩院宮墓地に葬られた。
◆嵐寛寿郎 映画俳優・映画プロデューサー嵐寛寿郎(あらし かんじゅうろう、1902-1980)。アラカン。京都市生まれ。衿屋で丁稚奉公後、1919年、片岡松之助の一座に加入し芸名は嵐徳太郎、1921年、初代中村扇雀(中村鴈治郎)の一座で女形となる。1923年、東京宮戸座の叔父・徳三郎の一座に加入。関東大震災後、京都へ戻る。1926年、徴兵検査を失格、1927年、マキノ・プロダクション御室撮影所に入社、嵐長三郎と名乗る。『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー、1928年、マキノより独立、嵐寛寿郎プロダクションを設立。1929年、東亜キネマ京都撮影所に移り、『右門一番手柄 南蛮幽霊』のむっつり右門が当り役となった。1931年、東亜を退社、第2次寛プロを設立、1932年、山中貞夫監督「磯の源太・抱寝の長脇差」に出演、1937年、寛プロ解散、1938年、日活京都撮影所に入社。1942年、日活の戦時統合により大映京都撮影所へ移る。1948年、大映京都を退社、1950年、綜芸プロダクションを設立。1956年、新東宝に入社、1957年、『明治天皇と日露大戦争』で明治天皇を演じる。1961年、新東宝倒産後、任侠映画、テレビにも出演した。300本以上の映画に出演し「時代劇六大スタア」のひとり。
 聖光寺に墓がある。
◆仏像・画像 本堂に、鎌倉時代の作という嵯峨式「釈迦如来立像」を安置する。
 江戸時代、1832年の火災時、聖光自筆の真影は焼失を免れたため、「焼残りの御影」と呼ばれている。
 康慶作という「聖光上人坐像」、恵心僧都(源信、942-1017)筆という「山越の弥陀三尊」がある。
 地蔵堂に「開運 地蔵菩薩」を安置している。
◆文化財 室町時代の紺地金銀泥「清海曼荼羅」は、音声菩薩、歌舞菩薩などが描かれている。
 「当麻曼荼羅」2幅。
◆墓 大石良雄の母「松樹院殿鶴山栄亀大姉」(?-1691)、綿屋善右衛門好時(天野屋利兵衛(あまのやりへい)、近代の映画俳優で鞍馬天狗で知られた嵐寛寿郎(1903-1980)の墓がある。
◆年間行事 修正会(1月1日)、涅槃会(2月14日)、鎮西忌(2月29日)、春彼岸会(3月)、花まつり(4月8日)、秋彼岸会(9月)、成道会(12月)。
 写生会(毎月20日)。


*義平・利兵衛・善右衛門の関係?
1 「天川屋義平」=天野屋利兵衛
2 「天川屋義平」=天野屋利兵衛=綿屋(安田)善右衛門
3 天野屋利兵衛≠「天川屋義平」=綿屋(安田)善右衛門

*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*参考文献 「浄土宗新聞 1990年10月号」、『日本地名大辞典 京都府 上』『京都市の地名』『京都 歴史案内』『京都隠れた史跡100選』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『極楽の本』、当寺案内



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地蔵堂、開運地蔵菩薩が安置されている。

地蔵堂

庫裏

無縁墓地、四条界隈での戦の犠牲者が葬られているという。
 聖光寺 〒600-7584 京都市下京区中之町584-1,寺町通綾小路下る  075-351-7584 
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