西法寺 (安居院) (京都市上京区)
Saiho-ji Temple
西法寺 (安居院) 西法寺 (安居院)
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 西法寺(さいほうじ)は、山号を竹葉山、また安居院(あぐい)ともいう。 
 浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 平安時代後期、現在地の南に、比叡山東塔北谷の竹林院(竹林房)の里坊だった安居院(上京区前之町、大宮通上立売の北とも)が創建された。当初は天台宗だった。
 1160年、「安居院」の記録があるという。
 聖覚法印(1167-1235)の隠居所(安居院新町)が置かれる。
 鎌倉時代、1214年頃、「安居院に住む聖あり」と記されている。(『発心集』)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、焼失したともいう。
 1593年、明円が安居院再建のために堂舎(安居院新町)を再建する。(寺伝)
 江戸時代、1613年、西本願寺12代・准如より「西法寺」の寺号を付与され、本願寺派に改める。本尊の木造・阿弥陀如来を下付される。(「木仏裏書」)
 1730年、西陣焼けにより焼失する。(『西陣天狗筆記』)
 1788年、天明の大火により焼失した。(『翁草』)
 近代、1926年頃、道路改修中に、安居院旧地(上京区前之町)より石造五輪卒塔婆が出土する。
◆澄憲 平安時代後期-鎌倉時代前期の天台宗の僧・澄憲(ちょうけん、1126-1203)。通称は安居院法印。藤原通憲(信西)の七男、母は高階重仲の娘。子に聖覚、勅撰歌人・八条院高倉。珍兼に天台教学を学び、比叡山北谷竹林院、里房の安居院(あぐい)に住した。1159年、平治の乱で父に連座し、下野国に配流された。すぐに許され宮中の最勝講、後白河法皇などの法会で導師をつとめた。1174年、最勝講で祈雨法を修し、功により権大僧都に任じられる。1177年、天台座主・明雲(みよううん)の伊豆配流に随伴し、一心三観を相承した。1183年、法印になった。晩年、京都一条・安居院に住み、妻帯した。唱導(説法)で布教した。著『言泉集』『澄憲作文集』。78歳。
 説法の大家、安居院流唱導の祖と称され、子・聖覚に継がれる。「四海大唱導一天名人也」と謳われた。
◆聖覚 平安時代後期-鎌倉時代中期の僧・歌人・聖覚(せいかく/しょうかく、1167/1169-1235)。通称は安居院(あぐい)法印。父は澄憲法印、藤原通憲(信西)の孫。比叡山東塔北谷竹林房の静厳(じょうごん)法印に学び、恵心・檀那の両流を相伝した。里坊・安居院に移り、父と共に唱導の安居院流を開く。唱導法談を行う。学識と弁舌に長けた。法然に師事し、浄土教に帰依した。九条兼実の願いにより、法然のマラリア(瘧、おこり)と自らの病を唱導により治したという。1227年、嘉禄の法難で念仏停止を進言した。他力専修念仏を説く『唯信抄』を著す。病床を藤原定家が見舞う。安居院で亡くなる。69歳。
 墓と伝えられる五輪塔が西法寺本堂前庭にある。
 父と共に唱導の安居院流を開く。後鳥羽院の信任を得た。歌は『新勅撰集』『続千載集』に入集する。謡曲「源氏供養」にも語られた。親鸞に影響を与えた。なお、近年では、聖覚は承元の法難に加担し、法然、親鸞を裏切ったともいわれている。
◆明円 安土・桃山時代の僧・明円(みょうえん、?-?)。詳細不明。伊勢(三重県)の生まれ。上野国・国府の遊行聖で、毎年、聖覚の墓参を行っていたという。1593年、安居院を再興する。
◆本尊 本尊の「阿弥陀如来立像」(36㎝)は鎌倉時代作になる。足枘(そくとつ)に「貞永元年(1232年)」の墨書銘がある。鉄仏で安居院の旧仏という。聖覚により遷されたとみられている。鉄仏は関東にはあるが畿内では珍しいという。
◆安居院流 比叡山延暦寺東塔北谷の竹林院の里坊だった安居院は、現在地の南200m程の所(大宮通寺之内上る前之町の東側)にあった。後に、安居院は付近の地名にもなる。安居院口は、大宮通鞍馬口付近を指した。
 平安時代末期以来、この地には名僧が住した。安居院唱導の祖・澄憲僧正、聖覚法印らはここを拠点として唱導を勧めた。これは、神仏の功徳を説き信仰を広める説教師であり、以後、安居院流として継承される。安居院流は、典拠のある美辞麗句による表白体(ひょうびゃくたい)を特徴にした。
 南北朝時代中期(14世紀)、安居院唱導教団によるとされる『神道集(しんとうしゅう)』(全10巻、50話)を編纂する。主に東国神社の縁起、本地垂迹説による神仏の説話集になっている。
源氏供養表白 平安時代末期-室町時代、『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたとされる平安時代中期の紫式部と、同じくその読者供養のための法会が行われていた。
 鎌倉時代末には『宝物集』『今物語』などの仏教説話集にも、紫式部があまりにもまことしやかな嘘を書き綴ったため、地獄に堕ちたと説かれた。
 「源氏供養表白(源氏表白)」とは、この供養の際に唱えられていた表白(願文)をいう。和文体で、物語の巻名が桐壺から夢浮橋まで詠み込まれていた。かつては物語と決別するために、写本を順に火にくべて供養した名残りという。 表白は聖覚が作ったともいう。漢文体の表白「源氏一品経」は、父・澄憲の作ともいう。
 謡曲「源氏供養」では、聖覚法印が石山寺参詣の折に、里女に出会う。里女は、成仏できないと供養を頼む。法印が石山寺に詣でて回向すると、里女が現れた。女は、寺に籠り悲願を込めて『源氏物語』を書いた。だが、虚言により書き、光源氏を供養をしなかった罪により、未だに成仏できないと嘆く。里女の正体は紫式部の亡霊だった。式部の頼みにより、聖覚は寺で供養をする。夜更けに、亡霊が再び現れ、礼の舞いを舞う。
◆文化財 旧安居院、真宗関係の仏像・文書類。
 「五輪石造卒塔婆」が安置されている。1926年頃、大宮通の道路工事中に、旧地(前之町)より出土した。鎌倉時代、「永仁二年(1294年)」の銘ある板状で、五輪塔の形を造る。空輪から水輪に、「南無阿弥陀仏」の六字の名号、下の地輪に定印の阿弥陀如来の坐像を舟形光背内に彫り出す。高さ98㎝、花崗岩製。
◆墓 聖覚の墓という巨大な五輪石塔が本堂前庭に立つ。
◆法印の井 江戸時代、貞亨年間(1684-1688)、安居院のあった寺之内大宮東側に「法印の井(法印井)」があったという。安居院のゆかりの井戸になる。聖覚が使用したという。江戸時代、宝暦年間(1751-1764)、西に移された。現在は大宮通廬山寺下る西側付近にある。
◆年間行事 紫式部の亡霊供養のため、聖覚作とされる「源氏表白」が伝承されている。毎年4月の聖覚忌に、源氏供養講式が行われている。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『事典 日本の名僧』、『京都大事典』、『京都歴史案内』、『京都の地名検証 3』、『京都府の歴史散歩 上』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』、『京の石造美術めぐり』『京都の寺社505を歩く 上』 、ウェブサイト「コトバンク」


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西法寺 〒602-0083 京都市上京区新ン町(しんちょう)599,大宮通鞍馬口下ル一筋目東入ル南側  075-441-3426 
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