擁翠園・岩栖院跡 (京都市上京区) 
Yosuien,Gansuin
擁翠園・岩栖院跡 擁翠園・岩栖院跡 
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表門
 上京区小山の岩栖院(がんすいん)町に、鞍馬口通に面して表門が残されている。現在は医療機器のアークレイ株式会社京都研究所が建つ。
 一帯は、室町時代の管領・細川満元の寺・岩栖院(がんせいいん)と関わりがある。また、敷地内に、江戸時代の装剣金工師・後藤長乗ゆかりの庭園「擁翠園(ようすいえん)」が遺されている。作庭には小堀遠州も関わったという。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、1221年、この地を領していた後藤家の祖・遠藤為盛(えんどう ためもり、1189-1279)が、承久の乱により第84代・順徳天皇に供奉して佐渡に渡る。その後、北条氏がこの地を没収したという。
 室町時代、管領・細川満元(ほそかわ みつもと、1378-1426)は、東山の地(現在の高台寺付近)に、北山殿(鹿苑寺)造営の余材により邸宅を築いたという。
 1426年、満元没後、寺に改められ、法名に因み岩栖院(がんせいいん)と改められる。臨済宗に属した。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。
 満元の子孫・細川仁栄により再興される。(『幻居山人随筆』)
 1478年、乱後、希世霊彦は丹波より京都に戻り、岩栖院を復興し、法嗣・南陽凰公に託したともいう。
 1521年、12代将軍・足利義晴が播磨守護代・浦上村宗に奉じられ上洛、岩栖院に宿泊する。(『二水記』同年条)
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、徳川家康が岩栖院を南禅寺の塔頭・雲門院(うんもんいん、左京区)内に移し、後藤長乗に旧領(現在地)を与え世襲領地としたという。岩栖院は南禅寺の塔頭の一つになる。
 江戸時代、1605年、高台寺造営に伴い、京極の北(中京区)に移る。
 1610年、慶長年間(1596-1615)とも、家康は旧領(岩栖院・崇福寺跡とも)として現在地(上京区岩栖院町)を装剣金工師・後藤長乗に与える。長乗は加賀藩第2代藩主・前田利常、大名・小堀遠州の助力を得て庭園「擁翠園(ようすいえん)」を作庭する。(駒札)。周辺には、後藤七郎兵衛など後藤一族の屋敷が建ち並んでいたという。(『洛中図会』)
 寛永・正保年間(1624-1648)、後藤覚乗は、擁翠園内に茶室「擁翠亭(ようすいてい)」を建てた。小堀遠州の設計による。
 1665年、関白・一条兼香(1693-1751)夫人は晩年に移り住み、紀州徳川家の浜御殿を移築したという。(駒札)。
 1686年、岩栖院について記されている。細川満元宅地で、俗に「賀世伊辻子」と呼ばれた。かつて、後藤長乗が岩栖院と崇福寺の地を合わせて宅地としたとある。(『雍州府志』)
 1788年、天明の大火により焼失する。
 近代、三井家別邸になる。(駒札)。
 現代、1953年、郵政省所有となる。京都地方貯金局、貯金センターとして使われる。
 2007年、郵政民営化に伴い、医療機器のアークレイ株式会社の所有になる。
 2008年、庭園は「上京区の史蹟百選・誇りの木」のひとつに選ばれる。
 2010年、アークレイ株式会社京都研究所が竣工した。
 2011年、庭園などの整備工事が終わる。
◆遠藤為盛 鎌倉時代の日蓮宗の僧・遠藤為盛(えんどう ためもり、1189-1279)。詳細不明。阿仏房日得(あぶつぼう にっとく)。順徳上皇(第84代)警護の北面の武士だった。1221年、承久の乱により上皇が佐渡に流された時、伴して佐渡に渡る。1242年、上皇没後、入道になり上皇の真野御陵近くに庵を結び菩提を弔う。1271年、佐渡に流刑になった日蓮に出会い弟子になる。妻の千日尼(せんにちあま)と日蓮を支援した。日蓮が赦免され島を去った後、法華経の布教につとめ、妙宣寺(佐渡市)を開いたという。
 後藤氏の祖という。
◆細川満元 室町時代の守護大名・細川満元(ほそかわ みつもと、1378-1426)。細川頼元の長男、満国の兄、子に持元、持之、持賢。1397年、父没後に家督を継ぐ。摂津・土佐・讃岐・丹波の守護を歴任した。1412年、管領職に就任し、4代将軍・足利義持をよく補佐した。1421年管領を辞任する。官位は右馬頭、右京大夫。
◆後藤長乗 安土・桃山時代-江戸時代前期の装剣金工師・後藤長乗(ごとう ちょうじょ う、1562-1616)。京都に生まれる。4代・後藤光乗の次男。5代・後藤徳乗の弟。刀装の金具職人(彫金師)であり、後藤勘兵衛家を興す。宗家の下後藤に対し、上後藤と呼ばれた。徳川家康の信任篤く、家康の慶長大判(笹書大判)の鋳造を請負い墨判を行う。1610年、家康に岩栖院(がんすいん、崇福寺、上京区)の地を与えられる。長乗は加賀藩主・前田利常、小堀遠州の助力で庭園の擁翠園(ようすいえん)を造営した。絵画、詩歌をよくし、本阿弥光悦らとも親交があった。
◆後藤覚乗 江戸時代前期の装剣金工師・後藤覚乗(ごとう かくじょう、1589-1656) 。後藤長乗の次男。後藤勘兵衛家2代。加賀金沢藩に仕え、従兄・後藤顕乗と隔年で金沢に滞在した。加賀後藤の基礎を築く。
◆後藤家 この地は、後藤家の祖・遠藤為盛(1189-1279)が領していたという。
 この地に、後藤祐乗(1440-1512)、宗乗(1461-1538)、乗真(1512-1562)の3代が住んだともいう。
◆庭園 庭園「擁翠園(ようすいえん)」は、室町時代、細川満元(1378-1426)が、金閣寺庭園の築造の余材により造営したという。細川晴元(1514-1563)の頃を描いた上杉本『洛中洛外図』には、「細川殿」南庭が描かれ、四阿を設けた亭橋が描かれている。
 江戸時代、1610年、慶長年間(1596-1615)とも、装剣金工師・後藤長乗が、加賀藩第2代藩主・前田利常、大名・小堀遠州の助力を得て庭園などを作庭した。地方貯金局庁舎建設に際し、庭園の改変が行われている。ただ、主要部は旧態を守っているという。
 竹林林泉庭、また池泉回遊式庭園であり、池泉は琵琶湖を模している。池の南に紀州家の浜御殿を移築したという書院「擁翠亭」が建てられていた。中島の蓬莱島が造られ、築山は大小3つあり橋が架かる。唐破風鳥居、鎮守社の十二社稲荷社、七面大明神が祀られている。船着場があり、船倉が建つ。キリシタン燈籠、名石(兜石、白藤石、矢筈石)などが据えられている。かつて、東北隅に、鴨川の水を引き入れた瀑布があったという。植栽は後藤藤、後藤薮、銘木の白椿「擬雪(ぎゆき)」が知られていた。
 現在、園内には100種以上の樹木があり、かつて、ツツジ、紅葉で知られた。庭園は今後も恒久保存される。
◆岩栖院・崇福寺 岩栖院町(上京区新町通上御霊前上ル東入ル)の北西に細川満元の邸宅があり、この地に住していたともいう。また、町の南に崇福寺殿があり、武将・細川政之(1455-1488)の館跡だったという。
 この地にあったという岩栖院、崇福寺跡が後藤長乗宅になったともいう。(『雍州府志』)。門前脇に掲げられている駒札にも同様の記述がある。
◆茶室 江戸時代、寛永・正保年間(1624-1648)、覚乗は、擁翠園内に茶室「擁翠亭(ようすいてい)」を建てている。13の窓があり「十三窓席」と呼ばれる。小堀遠州(1579-1647)の設計により、「きれいさび」の極みと呼ばれた。
 江戸時代中期、京都の寺に移される。1868年に廃寺に伴い解体される。2000年頃、茶室の部材と図面が数奇屋大工の倉庫より発見された。2015年、茶室は、古田織部美術館内に再建されている。


*普段は非公開。
*参考文献 『京都市の地名』『京都大事典』『京都・山城寺院神社大事典』『南禅寺史 上』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都隠れた史跡100選』『京都の地名検証 2』『京都の地名検証 3』


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 擁翠園 〒602-0008 京都市上京区岩栖院町59,鞍馬口通新町東入る アークレイ株式会社京都研究所   050-5830-1050
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