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権現寺 (京都市下京区) Gongen-ji Temple |
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権現寺 | 権現寺 |
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![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() ![]() 地蔵堂 ![]() |
七条通より南へ細い路地の奥に権現寺(ごんげん-じ)がある。かつて「朱雀(しゅじゃか)権現堂」、「朱雀地蔵堂」とも呼ばれた。 山号を清光山、院号を成就院という。かつて「祇陀林寺(ぎだりんじ)」、「歓喜寺(歓喜壽院)」、「広幡院」ともいわれ、それぞれの寺院の歴史が絡んでいる。 説話の『山椒大夫』に登場する津子王(厨子王丸)が、丹波より逃れてきた寺ともいう。 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 平安時代初期、第55代・文徳天皇(在位:850-858)の時/858年、大和国・元興寺より勝軍地蔵を歓喜寺(七条朱雀)に遷したという。(『京羽二重織留』) 公卿・広幡(源)庶明(903-955)の邸宅「広幡邸(院)」の遺跡だったという。「広幡院(こうはんいん)」と呼ばれたともいう。異説もある。 1000年、公卿・藤原顕光より、宅地(五条通富小路付近)の寄進を受ける。祇陀太子(中インド舎衛国波斯匿王の太子)が、所有の祇陀林を須達(しゅだつ)長者とともに釈迦に献じた。祇園精舎建立に因み、「祇陀林寺」といわれたという。(寺伝)。院源が山号を改称したともいう。 1179年、祇陀林寺は焼失する。(寺伝) 鎌倉時代、1219年、祇陀林寺が焼失する。(寺伝) その後、祇陀林寺は三災不動の地といわれた朱雀(しゅしゃか)へ移り、地蔵堂が建立される。(寺伝) 1214年、七条院(藤原殖子)は歓喜壽院を建立した。(寺伝) 1221年、承久の乱後、七条院の権勢は衰微した。歓喜壽院は仁和寺道助に譲られ、仁和寺御室が管領する。(寺伝) その後、歓喜壽院は荒廃する。 室町時代、歓喜壽院は権現堂のみになる。(寺伝) 安土・桃山時代、1596年、祇陀林寺は朱雀内幡町で浄土宗寺院として再興する。(寺伝) 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、歓喜寺の森(千本七条東南)があり、西北20間に権現社が祀られていたという。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、浄誉が中興し、浄土宗に改める。「権現寺」と改称したともいう。 江戸時代前期、祇陀林寺は祈祷所(勝軍地蔵、火印地蔵)として、民間の愛宕信仰により賑わう。(寺伝) 1711年、祇陀林寺は「権現寺」に改称する。(寺伝) 近代、1911年/1912年、権現寺は京都駅停車場の拡張工事に伴い、新千本通七条の角より現在地(朱雀内幡町)に移る。(寺伝) ◆源 庶明 平安時代中期の公卿・源 庶明(みなもと-の-もろあきら、903-955)。男性。広幡(ひろはた)庶明、広幡中納言。父・斉世(ときよ)親王、母・山城守・橘公廉の娘の第3王子。第59代・宇多天皇の孫、宇多源氏。侍従の時、23歳で賀茂臨時祭の祭使を務めた。941年、参議、従三位。953年、中納言。慈覚大師(円仁)の伝記『慈覚大師伝』の跋文を書いた。邸宅「広幡邸(院)」は鴨川近くにあった。歌は『後撰和歌集』に入集。娘・計子は村上天皇の妃・広幡御息所。 53歳。 ◆院源 平安時代中期の天台宗の僧・院源(いんげん、951/952-1028)。男性。俗姓は平(たいら)、通称は西方院僧正。父・陸奥守・平基平。幼くして父を亡くし比叡山・良源、覚慶に師事した。993年、円珍門徒(寺門派)の比叡山からの分離に際し、横暴を訴える奏状を書く。1001年、権律師、1002年、内裏御八講の賞により権少僧都、1007年、26世・天台座主、権僧正、1023年、僧正、法務を兼ねた。1025年、第68代・後一条天皇に仁王経を講じ、鳳輦車での参内を許された。道長の法成寺金堂落慶供養の導師、一条上皇(第66代)、三条上皇(第67代)、藤原彰子、道長らの戒師・葬送の導師なども勤めた。源満仲を出家に導いたという。晩年、西塔西方院に隠棲した。78歳。 ◆七条院 平安時代後期-鎌倉時代の七条院(1157-1228)。女性。名は殖子(しょくし)。法名は真如智。父・後白河院近臣・修理大夫(贈左大臣)藤原信隆、母・贈正一位・藤原休子。第80代・高倉天皇中宮・平徳子(建礼門院)に仕え、兵衛督君(ひょうえのかみのきみ)と呼ばれた。高倉天皇の典侍になり、1179年、守貞親王 (後高倉太上天皇) 、1180年、尊成 (たかひら) 親王 (第82代・後鳥羽天皇) を産む。1183年、後鳥羽が即位すると母として、1190年、従三位、准三宮、院号宣下により七条院と称した。後鳥羽天皇より多くの荘園(七条院領)を贈られる。1205年、落飾した。姪・西御方(坊門信清の娘)が、後鳥羽との間に産んだ道助法親王を猶子として養育した。72歳。 ◆厨子王丸 伝説上の人物・厨子王丸(ずしおうまる、?-?)。男性。津子王(づしおう)、対王丸。父・奥州の大守岩城判官正氏。姉・安寿(あんじゅ)。説話『山椒太夫』では、姉弟は人買いにさらわれる。2人は山椒大夫(さんしょうだゆう)に売られ酷使された。姉は捨て身で弟を逃がす。後に厨子王丸は、一国の領主になる。太夫を仇討ちし、別れた母と佐渡の国で再会を果たす。 中世-近世の説経節に語られた。浄瑠璃、歌舞伎などに取り入れられる。厨子王丸は、逃走の途中で「朱雀権現堂」に立ち寄った設定になっている。 ◆源 為義 平安時代後期の武将・源 為義(みなもと-の-ためよし、1096-1156)。男性。通称は六条堀河に住み六条判官。父・源義親(よしちか)の4男。源義家の孫。1108年、父は乱行により平正盛に追討される。為義は、叔父・源義忠の養子になる。悪左府(あくさふ)・藤原頼長の従者になった。1109年、義忠が殺害され、朝命により義家の弟・義綱一族を追討し、その功で左衛門尉に任官した。祖父・義家を継ぎ河内源氏の当主になる。白河法皇(第72代)から第74代・鳥羽天皇の警護に起用される。1135年、瀬戸内海の海賊追討使の候補になるものの、鳥羽上皇は為義を嫌い、平忠盛を任命した。為義は、次第に摂関家・藤原忠実に接近する。1143年、藤原頼長に臣従した。警護・家人取締り・興福寺悪僧の処罰・荘園の管理などを一族と共に担う。1146年、検非違使になった。1150年、忠実が長男・忠通を義絶した際に、東三条殿の警備に当たる。1154年/1155年、為義の子・為朝の九州での乱行により解官された。家督を長子・義朝に譲る。1156年、保元の乱で崇徳上皇(第75代)・藤原頼長方に子・頼賢・為朝らと加わる。第77代・後白河天皇方に付いた義朝と敵対した。夜襲の献策を頼長に退けられ敗北した。潜伏後、延暦寺で出家し義朝への助命嘆願も及ばず、旧7月、義朝により5人の子らと船岡山で斬首される。61歳。 ◆仏像 本堂に本尊の「阿弥陀如来像」を安置している。 ◆地蔵 地蔵堂に2体の地蔵が安置されている。 ◈「勝軍地蔵」は、奈良・元興寺(がんこうじ)より遷したという。 ◈地蔵堂(朱雀の地蔵堂)に、金銅の「身代り地蔵」(像高70㎝)が安置されている。津子王(づしおう、対王丸、厨子王丸)の命を救ったという守り本尊になる。 追手が津子王が隠れている葛籠を槍で突いた。この時、津子王が身に付けていた小さな地蔵に刃が当たり、命を救われたという。像の胴のあたりにその時の傷跡がある。また、追手が葛籠を開けると地蔵のみが現れたともいう。地蔵尊は以来、身代わり地蔵といわれたという。 ◈地蔵堂の横に、2体の地蔵が安置されている。観音像、地蔵菩薩であり、いずれも鎌倉時代作になる。 ◆祇陀林寺 祇陀林寺の詳細は不明。平安時代中期、1000年、天台宗・仁康により創建されたともいう。現在の京極中御門(上京区)にあり、焼亡と再建を繰り返した。地蔵信仰でも知られ、地蔵会では疫病祓いの民間信仰を集めた。鎌倉時代後期、1311年、金蓮寺と寺号を改めたともいう。現在の祇陀林寺(上京区)と権現寺との関係は不明という。 また、鎌倉時代、七条朱雀東南に歓喜寿院があり、後に祇陀林寺と呼ばれたという。 ◆三災不動の地・朱雀 「三災不動の地」といわれた朱雀(しゅしゃか)(七条千本)は疫神祭が修される地とされていた。(『三代実録』865年の条)。 朱雀は厄病神、厄災を祓い福を招く地とされた。平安時代-鎌倉時代にかけて、災禍などに見舞われなかったという。(寺伝) ◆さんせう大夫 中世の説経節の「五説経」中に『さんせう大夫』の物語がある。 陸奥国大守岩城の判官正氏(まさうじ)の御台所(みだいどころ)と子の姉・安寿、弟・津子王(つし王、厨子王丸)は、筑紫に流された父を訪ねる旅に出る。越後国直江津で、人買いにより母子は離され売られた。姉弟は丹後の長者・山椒大夫の奴隷になる。後に姉は弟を脱走させる。姉は、山椒大夫の息子・三郎により激しい拷問の末に殺される。津子王は丹波街道より当権現堂に逃げ延びたという。僧は厨子王丸を匿い、葛籠に入れ天井に吊るした。寺は丹後由良の国分寺とともいう。後に津子王は山椒大夫父子に復讐を果たす。 近代の小説家・森鷗外(1862-1922)はこの物語を元に『山椒大夫』(1915)を書く。映画監督・溝口健二(1898-1956)は、映画「山椒大夫」(1954)を完成させる。作品はヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を獲得した。 ◆文化財 葛籠(つづら)の断片といわれるものが寺に伝わる。災難除けのご利益があるという。 津子王は皮の葛籠という、蓋つきの籠のようなものに入り権現寺に運ばれたという。また、寺内で身を隠した際の、天井から吊るしていた葛籠片ともいう。 ◆墓 参道脇に平安時代の武将・源為義(1096-1156)の供養塔が立つ。平安時代後期、1156年の保元の乱に敗れ斬首された。350年ぶりの死刑執行になった。 ◆年間行事 権現堂開扉(8月20日前後の土・日曜日)。 *非公開。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』、『京のお地蔵さん』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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