白毫寺 (太子堂白毫寺) (京都市下京区)
Byakugo-ji Temple
白毫寺 (太子堂白毫寺) 白毫寺 (太子堂白毫寺)
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本堂



本堂扁額
 白毫寺(びゃくごうじ)は、太子堂白毫寺(たいしどう-びゃくごうじ)ともいう。速成就院と号する。かつて、塩竈太子堂といわれた。 
 現在は単立寺院、本尊は厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子)立像(南無仏太子)を安置する。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 かつて、知恩院総門の北(東北とも、現在の華頂女子短期大学の付近とも)、粟田口にあったという。聖徳太子自作という南無仏を安置し、太子堂と呼ばれた。当初は真言律宗であり、京都の拠点寺になっていた。(寺伝)。
 鎌倉時代、忍性(にんしょう、1217-1303)の創建ともいう。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により罹災する。
 江戸時代、1603年/慶長年間(1596-1615)、徳川家康による知恩院拡張に伴い当地に移ったという。当初は塩竈太子堂といわれた。
 1788年、天明の大火で類焼する。
 嘉永年間(1848-1854)、旧地に残されていた聖徳太子の手植えという「太子杉」が枯死する。
 安政年間(1854-1859)、類焼する。
 1864年、元治の大火で類焼した。
◆忍性 鎌倉時代前期-後期の律宗僧・忍性(にんしょう、1217-1303)。俗姓は伴、字は良観(房)、諡号は忍性菩薩、医王如来、生身如来と称された。大和国(奈良県)の生まれ。父は伴貞行(ともの-さだゆき)、母は榎氏。1232年、文殊信仰のあった母の没後、額安寺に入り剃髪した。その後、安倍文殊院、生駒山竹林寺などで文殊信仰の修行をした。唐招提寺の覚盛(かくじょう)に戒律を学ぶ。1233年、東大寺戒壇院で受戒した。1239年、西大寺・叡尊(えいぞん)の戒を受け弟子になる。奈良に北山十八間戸を営み、「癩(らい)病(ハンセン病)」罹患の「非人」救済を行う。1240年、額安寺西辺宿で文殊像供養の際に、「非人」に布施を行う。1247年、律書を宋に求め、戒律の復興を図る。1252年、東国布教のため八田氏(小田氏)の外護を受け、関東常陸の清凉院極楽寺に移る。1261年、北条重時の葬儀導師を務めた。大慈寺の別当を兼ねた。泉寺の開山になる。1262年、叡尊の鎌倉下向に際し、新清涼寺釈迦堂に滞在した。北条業時の招きにより多宝寺の住持になる。1267年、北条長時の請で極楽寺の開山になる。鎌倉での律宗の本拠になった。1281年、摂津・多田院本堂の供養が行われ別当職になる。後に幕府の援助により再興し、西大寺の管轄になる。1294年、四天王寺別当になった。極楽寺で没した。87歳。
 西大寺流律宗に忍性の文殊信仰が取り入れられ、「非人」を文殊菩薩の化身とみなし供養した。療病施設の桑谷療病所を建て救癩活動する。四天王寺の悲田院・敬田院を再興し救済を進めた。東大寺大勧進した。出版事業、道路建設、架橋、馬病舎なども建てる。北条時宗の命で蒙古来襲の調伏呪法を修した。日蓮は忍性を「律国賊」として排斥する。
 知恩院(東山区)境内に立つ五輪塔(忌明塔)は忍性の墓ともいう。極楽寺(鎌倉)、額安寺(奈良)に五輪塔がある。竹林寺(奈良)にも埋葬されているという。
◆本尊 本堂安置の本尊「聖徳太子(厩戸王)立像」は南無仏太子という。2歳の太子が合掌し、南無仏と唱えた姿を表す。その故事に由来する。
 像は太子自刻ともいう。長一尺余(30.3㎝)、脇壇の四天王は唐作ともいう。(『都名所図会』)
◆太子水 旧地(華頂女子短期大学の付近)に「太子水」が残る。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都大事典』、『京の石造美術めぐり』、『国宝への旅 2』、『京都 歴史案内』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』 、ウェブサイト「コトバンク」


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白毫寺 〒600-8119 京都市下京区本塩竈町539,富小路通五条下ル    075-361-0041
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