華開院 (五辻御所) (京都市上京区)
Kekai-in Temple
華開院 華開院 
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home









筋塀(すじべい)、白色の横筋を刻んだ築地塀。この横の線は定規筋(じょうぎすじ)と呼ぶ。御所、門跡寺院などに用いられた。格式により数を増し、このような5本筋は最高とされた。


本堂


本堂


本堂の寺号扁額「華開院」
 行衛(ゆきえ)にある華開院(けかいいん)は、五辻御所(いつつじごしょ)とも呼ばれている。鎌倉時代-南北朝時代には、勅願寺として禁裏内道場に準じられた。このため、山号、寺号はない。
 境内に皇室、尼門跡関係、また日野富子の墓がある。 
 浄土宗鎮西義、本尊は阿弥陀如来坐像。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、1257年/1256年、第89代・後深草天皇の皇子・光岸法達親王の創建ともいう。天皇の意を受けて開かれた。当初は、安居院大宮(上京区、大宮通寺之内下る花開院町・樋ノ口町付近)にあり、御所を寺に改めたという。当初は天台宗であり、勅願所になる。
 鎌倉時代-南北朝時代、第90代・亀山天皇皇子・守良親王が移り、以後、五辻御所と呼ばれたという。親王の開基ともいう。禁裏内道場に準じられた。
 弘安年間(1278-1288)/1287年、三井寺(園城寺)の僧・向阿(こうあ)が、当院に隠遁、中興し浄土宗に改めた。本寺・清浄華院末になる。
 第96代・南朝初代・後醍醐天皇(在位 :1318-1339)の綸旨を贈られる。
 南北朝時代、北朝第2代・光明天皇(在位:1336-1348)、第97代・南朝第2代・後村上天皇(在位:1339-1368)、北朝第4代・後光厳天皇(在位:1352-1371)の勅願寺になりそれぞれの綸旨を贈られる。
 学者・四辻善成(よつつじ-よしなり、1326-1402) が、晩年を華開院に暮らしたともいう。(『扶桑京華志』)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)では、当院に西軍・山名氏の陣が敷かれ焼失した。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉の都市計画により、寺町通(上京区寺町通今出川上る付近)に移る。
 江戸時代、1668年/寛文年間(1661-1673)、現在地に再移転になった。(『扶桑京華志』)
◆守良親王 鎌倉時代-南北朝時代の皇族・守良親王(もりよし-しんのう、?-?)。法名は覚浄、五辻宮(いつつじのみや)(初代)。第90代・亀山天皇の皇子、母は三条実任の娘。四品、兵部卿。『太平記』第9巻「番場自害事」中、1333年、北条仲時ら六波羅勢を全滅させた近江国野伏が擁した「先帝第五の宮」とみられている。
◆光岸法達親王 鎌倉時代の皇族・光岸法達親王(?-?)。詳細不明。第89代・後深草天皇の皇子という。
◆向阿 鎌倉時代末期-南北朝時代の浄土宗の僧・向阿(こうあ、1265-1345)。俗姓は武田、字は是心、諱は証賢(しょうけん)、号は浄華房。甲斐(山梨県)の生まれ。武田時綱の子。園城寺で出家し天台学を学ぶ。のち鎮西義一条流の京都・法光明院の然空礼阿(ねんく-らいあ)に師事し浄土教に改めた。759年、専空から京都三条坊門高倉・専修院を譲られ、浄華院に改めて布教した。浄土宗大本山清浄華院5世。著『往生至要訣』、真如堂に参籠し開悟し『三部仮名鈔』を編述した。81歳。
 向阿により一条派は浄土宗最大勢力になった。
◆通陽門院 南北朝時代-室町時代の女性・通陽門院(つうよう-もんいん、1351-1407)。名は藤原厳子(たかこ)。内大臣・三条公忠(きんただ)の娘、京都の生まれ。1371年、参内し上臈局と称した。1377年、北朝第5代・後円融天皇との間に北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇、珪子内親王を産む。1383年、天皇が厳子と足利義満との関係を疑い、刀の峰打ちにより負傷し実家へ帰ったという。1383年、二位、1395年、准三宮、1396年、通陽門院の院号宣下を受けた。56歳。
 没後、足利義満は天皇一代に2度の諒闇(喪)は不吉として、室・日野康子の准母立后が行われた。
 墓は華開院(上京区)にある。
◆崇賢門院  南北朝時代-室町時代の女性・崇賢門院(すうけん-もんいん、1339-1427)。名は仲子。紀通清の娘、広橋兼綱の養女。名は仲子。北朝第4代・後光厳天皇の典侍となり、1358年、北朝第5代・後円融天皇、1362年、永助入道親王、1363年、尭仁法親王を産む。1380年、准三宮、1383年、院号を受けた。89歳。
 墓は華開院(上京区)にある。
◆日野富子 室町時代の女性・日野富子(ひの-とみこ、1440-1496)。法号は妙善院。京都の生まれ。日野政光(重政)の娘、日野勝光の妹。1455年、16歳で8代将軍・足利義政の室になる。1459年、男子死産する。義政の乳母・愛妾・今参局(いままいりのつぼね)を、呪詛事件の咎で自殺に追う。義政に世継ぎなく、1464年、義政は弟・浄土寺門主義尋(義視)を還俗させ養子にした。1465年、富子は義尚を産む。1466年、富子は我が子・義尚を将軍後継とし、山名持豊(宗全)と結ぶ。義政・弟義視(よしみ)を推す細川勝元と争い、応仁・文明の乱(1467-1477)の一因になったとされる。1471年、義政は室町御所より細川勝元の屋敷に移る。1473年、義尚が9代将軍になり、富子は幕政に関与した。東西軍武将への高利貸し、米相場、賄賂などで蓄財した。1473年、義政が没した。1477年、応仁・文明の乱の終結に尽力した。1478年、内裏修理料名目で関所7カ所を新設させ、関銭を徴収し私物化した。1480年、関所は土一揆により破られる。1483年、義尚とも不和になる。1489年、義尚が没し、1490年、義政も没した。晩年、尼僧になり妙善院と称した。天皇家に対し財政援助した。57歳。
 墓は華開院(上京区)にある。
◆仏像 本尊は「阿弥陀如来坐像」を安置する。平安時代の慈覚大師(円仁、794-864)の作とされる。大師随身像で、かつて坂本(大津市)・日吉神社の念仏堂に安置されていた。園城寺の僧・向阿が遷したという。真如堂(左京区)の本尊と同木の霊像という。
◆文化財 後深草天皇など歴代天皇の綸旨がある。綸旨は、天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書、命令文書をいう。
◆墓 北朝第5代・後円融天皇の母・崇賢門院(藤原[広橋] 仲子、北朝第4代・後光厳天皇典侍)、北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇の母・通陽門院(藤原[三条]厳子、後円融天皇後宮)の陵墓がある。
 足利義政の妻・日野富子の墓がある。
 光照院、恵聖院、三時知恩寺などの尼門跡関連の墓もある。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『京都大事典』、『京都歴史案内』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、『おんなの史跡を歩く』、『京に燃えたおんな』、『女たちの京都』 、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺   周辺阿弥陀寺跡・六ノ保社跡(上京区)   周辺竹林寺   周辺達磨寺(法輪寺)   関連     
華開院 〒602-8366 京都市上京区行衛町440,天神筋通丸太町上ル西側  075-811-2852
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光