栢ノ杜(栢杜)遺跡 (京都市伏見区)  
the Kayanomori ruins
栢ノ杜(栢杜)遺跡 栢ノ杜(栢杜)遺跡
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「史跡 醍醐寺境内栢杜遺跡」の石標


説明の石板

栢杜遺跡
 醍醐柏森町(だいご-かしわもり-ちょう)に、「史跡 醍醐寺境内栢杜遺跡(しせき-だいごじけいだい-かやのもりいせき)」の石標、石板が立てられている。
 栢杜遺跡は、平安時代の末に建てられた醍醐寺の子院だった。付近一帯には、大蔵卿堂、九躰丈六堂、三重塔、庭園などがあった。
◆歴史年表 平安時代後期、1155 年、源師行(みなもと-の -もろとき)により、八角円堂の大蔵卿堂八角二階、方形堂の九躰丈六堂、三重塔が建立された。(『醍醐雑事記』)
 1181年頃、重源(ちょうげん/じゅうげん)は、方形堂の九躰阿弥陀堂を建立した。丈六の阿弥陀如来像、金色の立像などを安置する。(『南無阿弥陀仏作善集』)
  1195年、重源は、宋から持ち帰った『宋板一切経』6434巻を栢杜堂に施入れ、讃嘆している。(『南無阿弥陀仏作善集』)
 現代、1967年、遺跡は国指定史跡(醍醐寺境内)になる。
 1972年-1973年、宅地造成に伴い、発掘調査が行われた。八角円堂(大蔵卿堂)、方形堂(九躰丈六堂)の2建物跡が南北に並んで確認された。
 1982年、11月、京都洛東ライオンズクラブにより石標が立てられた。
 1983年、国指定史跡(醍醐寺境内)に追加指定される。
 2001度より、発掘調査が行われる。3月、京都市・京都洛東ライオンズクラブにより石板が立てられた。 
 2003年、三重塔とみられる基壇、石垣、溝、石敷などが確認された。
◆源師時 平安時代後期の公卿・源師時(みなもと-の -もろとき、1077-1136)。左大臣(村上源氏)源俊房の子。母は参議・源基平(三条源氏)の娘。1113年、仁和寺の仁寛が第74代・鳥羽天皇暗殺を企てた罪で伊豆に配流される。(永久の変)。仁寛は兄弟だったため、父、兄・師頼、師時は出仕を止める。1122年、蔵人頭、参議になる。鳥羽天皇の准母・令子内親王に30年余仕え、皇后宮権大夫を務めた。1130年、権中納言正三位。待賢門院藤原璋子の別当になった。日記『長秋記』を記する。有職故実に通じ、大江匡房に詩を学ぶ。『金葉和歌集』以下の勅撰集に入集。60歳。
◆重源 平安時代末期-鎌倉時代の浄土宗の僧・重源(ちょうげん/じゅうげん、1121-1206)。俗名は刑部左衛門尉重定、字は俊乗坊、号は南無阿弥陀仏。京都生まれ。紀季重(きの-すえしげ)/季良の子。1133年、13歳で醍醐寺に入り出家し、金剛王院・源運に学ぶ。上醍醐の円明房に止住した。高野山に登り、後に法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城などで修行した。下醍醐に栢杜堂を建て、上醍醐の一乗院、慈心院塔に結縁する。1167年-1176年、宋に3回留学し浄土教、建築法を学んだという。異説もある。現地で栄西に遭う。1168年、栄西とともに帰国した。1180年、兵火により東大寺が炎上し、源頼朝の寄進、再建に際し、1181年、重源は造東大寺大勧進職に就く。1185年、大仏開眼会を催した。1186年、周防国が東大寺造営料国になり、国司になり、材の巨木を東大寺まで運ぶ。1190年、大仏殿が上棟した。1191年、法然を東大寺に招き、浄土三部経の講義を開いたという。1195年、大仏殿落慶法要を行う。宋の鋳物師・陳和卿(ちん-なけい)の協力を得て、天竺様(大仏様)を輸入し造立した。大和尚位に叙せられる。1196年、脇侍、四天王などの木像、石像を造立させる。 1203年、総供養を終えた。著『南無阿弥陀仏作善集』。86歳。
 周防・阿弥陀寺など各地に寺院を建立する。備前・船坂山を開き、播磨・魚住泊(うおずみ-の-とまり)の改修、架橋、池の改修も行う。
◆栢杜遺跡 「栢ノ杜遺跡」(300㎡)は、醍醐寺の南1km、笠取山の西麓、標高40-50mの西側の高台に位置していた。『南無阿弥陀仏作善集』から「栢ノ杜(栢杜)遺跡」と名付けられる。平安時代後期-鎌倉時代の遺跡になる。
 付近一帯には、平安時代末に建てられた醍醐寺子院があった。伽藍の仏堂、塔は南北に建てられていた。現在は、発掘後に埋め戻して保存されている。
  ◈1973年に、宅地開発に伴う京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査が行われる。2棟の建物跡が南北に並んで確認された。北側の建物は八角円堂(径14.3m)、その東に付属施設、南側の建物が方形堂(一辺22.5m)で、八角円堂西側に平安時代後期の庭園跡も見つかった。建物跡は、それぞれ、平安時代後期に建てられた大蔵卿堂、九躰丈六堂(くたいじょうろくどう)だったとみられている。
 『醍醐雑事記』には、平安時代、1155年に「栢杜大蔵卿堂(おおくらきょうどう)」が供養されたとある。「大蔵卿堂八角二階 九躰丈六堂 三重塔一基各槍皮茸」「願主大蔵卿正四位源師行」と記されている。この地に源師行(?-1172)が、大蔵卿堂八角二階の建物、九躰丈六堂、三重塔の3宇を建立したという。『南無阿弥陀仏作善集』には、重源(1121-1206)が「栢杜堂一宇(九躰阿弥陀堂)」を造り、丈六の阿弥陀如来像を9体、金色の3尺(0.9m)立像などを安置したと記されている。
 九躰丈六堂は、重源が宋からの最新の建築技法「大仏様」により建立していた。同様の技法を用いた同規模の浄土寺浄土堂(兵庫県小野市)がある。
  ◈2001度よりの発掘調査で、2003年に規模の大きな三重塔の基壇、石垣、溝、石敷きなどが確認された。
 塔跡の礎石は失われていた。方形の基壇規模は一辺10.6m、高さ0.6m、西半分は失われ、亀腹基壇の型式だった。基壇周囲からは、屋根に葺かれていた大量の瓦、鋳鉄製の風鐸(ふうたく)の破片、建築部材、釘、輸入陶磁器なども出土した。風鐸は屋根の四隅に吊す装厳具で、当時は塔にしか吊されなかった。出土した瓦は、鎌倉時代、1237年に九条道家によって造立発願された東福寺との同范瓦が多くみられた。三重塔の創建当初は檜皮葺であり、後の鎌倉時代に瓦屋根に葺替えられたと見られている。
 石垣は建物跡西側で確認された。南北10m余、高さは最高で0.8m、0.3m程の石が段状に積まれていた。石垣は建物正面にしかなく、傾斜地の土砂崩れ、建物崩壌を防ぐために築かれたとみられている。南側延長部分では、段差の上部に石が敷かれていた。石垣の前面には平行して、排水のための溝(幅1.8m)が掘られていた。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
参考文献 「京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館発掘ニュース65 栢ノ杜遺跡リーフレット京都 No.191(2004年12月)」、ウェブサイト「栢ノ杜遺跡 - 京都市埋蔵文化財研究所」、ウェブサイト「栢ノ杜遺跡配付資料」、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」『掘り出された京都』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 栢杜遺跡 〒601-1336 京都市伏見区醍醐柏森町36-38
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