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  光清寺 (京都市上京区)
Kosei-ji Temple
光清寺 光清寺 
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庫裏




「心月庭」


主石と庫裡妻の中心線


「心月庭」


「心月庭」、金閣寺垣


玄関


南庭、中門


中門、菊華紋の透かし


「心和の庭」



「心和の庭」


「心和の庭」


「心和の庭」、三尊石


「心和の庭」、主石(本尊石)


「心和の庭」


「心和の庭」


「心和の庭」、砂紋


「心和の庭」




砂紋は大渦巻紋


竹垣


竹垣の「心」字の意匠


鐘楼



梵鐘


五葉松



弁天堂



絵馬「浮かれ猫」、猫(左半分)、牡丹(右上)、蝶(右上端の小さな薄い白点)、案内板より


【参照】「七番町」の町名
 出水通六軒町西入ル七番町(しちばん-ちょう)にある光清寺(こうせい-じ)は、宮家との関わりが深い。伏見宮直属の無本寺格(むほんじ-かく)として宮準門跡に列せられた。かつて岩倉家の菩提寺だった。
 「出水の七不思議」の一つ「浮かれ猫」の伝承がある。重森三玲の作庭による庭がある。
 山号は心和山(しんわ-ざん)、院号は慈眼院(しげん-いん)という。
 臨済宗建仁寺派、本尊は聖観音(聖観世音菩薩立像)。
 弁天堂は、三味線・諸芸上達の祈願信仰がある。
◆歴史年表 江戸時代、1669年、伏見宮貞致(ふしみのみや-さだゆき)親王が、生母・慈眼院殿心和光清尼(安藤定子)の菩提を弔うために、臨済宗・杲山(こうざん)禅師を開山として創立された。(寺伝)。宮家領地の聚楽第に建てられた。また、義浄により開かれたともいう。当初は天台・華厳・真言・禅の四宗兼学とした。初めは、栂尾(とがのお)善妙寺(ぜんみょうじ)村から名義を移し、聲實庵(声実庵、しょうじつ-あん/せいじつ-あん)と称したという。
 1701年、焼失する。
 1706年、焼失し、伏見宮邦永親王により再建される。祖母・慈眼院殿の法名より「心和山」と号し、寺号は「光清寺」に改められる。以後、近代まで、無本寺格、準門跡に列せられた。
 1758年、宮家が江戸に移る際に、鎮守社・玉照(たまてる)神社が伏見宮邸(今出川)より当寺に遷される。 
 近代、1868年、臨済宗建仁寺派に属する。
 現代、1967年、現代の作庭家・重森三玲は「心和の庭」を作庭する。
 1974年、重森は庫裡前に「心月庭」を作庭した。
◆杲山 義洋  江戸時代前期の臨済宗の僧・杲山 義洋(こうざん-ぎよう、?-?)。詳細不明。杲山義洋禅師。1669年、光清寺を開山した。
◆伏見宮 貞致 親王 江戸時代前期の皇族・伏見宮 貞致 親王(ふしみのみや-さだゆき しんのう、1632-1694)。詳細不明。男性。父・伏見宮第10代当主・貞清親王。邦尚(くになり)親王の子とも。母・少納言局・安藤定子。1660年、第108代・後水尾天皇の猶子、親王になる。弟・邦道親王の跡を継ぎ、第12代当主になる。式部卿に進む。王子女に邦永親王、真宮理子女王(徳川吉宗室)がある。63歳。
◆伏見宮 邦尚 親王 江戸時代前期の皇族・伏見宮邦尚親王(ふしみのみや-くになり しんのう、1613-1654) 。詳細不明。男性。父・貞清(さだきよ)親王の第2王子。伏見宮家(11代とも)。1626年、親王になる。病のため元服せずに亡くなる。法号は乾徳院。41歳。
◆慈眼院殿 心和 光清 尼 江戸時代の慈眼院殿心和光清尼(じげんいん-しんわ-こうせいに、 ?-?)。詳細不明。女性。少納言局(しょうなごん-きょく)・安藤定子とみられる。父・安藤定元/安藤定吉、曾祖父は邦輔親王王子・安藤惟実(邦茂王)。10代当主・貞清親王(1596-1654)の側室の一人になる。貞致親王の母。戒名は慈眼院殿心和光清大信女。
◆伏見宮 邦永 親王 江戸時代中期の皇族・伏見宮 邦永 親王(ふしみのみや-くになが しんのう、1676-1726)。男性。幼名は茶々丸、若宮。父・伏見宮貞致親王の第2王子。1695年、第112代・霊元天皇の猶子になり、親王宣下、名を邦永と賜わる。伏見宮第13代当主になる。中務卿に任じられ、後に一品に進む。妃は霊元天皇第5皇女・福子内親王。51歳。
◆岩倉 恒具  江戸時代中期の公卿・岩倉 恒具(いわくら-つねとも、1701-1760)。男性。初名は具脩。父・岩倉乗具。竹内式部に神道と儒学を学ぶ。1732年、従三位、その後、参議、1753年、権中納言になる。1758年、竹内、若手公家達らの尊王論者が弾圧された宝暦事件にかかわり、幕府から処罰された。1891年、名誉回復になる。60歳。
◆重森 三玲 近現代の作庭家・重森 三玲(しげもり-みれい、1896-1975)。男性。計夫(かずお)。岡山の生まれ。1911年、15歳で茶道、華道を学ぶ。1914年、18歳で茶室・露地を設計する。1917年、日本美術学校で日本画を学び、生花・茶道を習得し、文化・芸術のみならず、宗教・哲学にも関心があった。1922年、文化大学院の創設を企図する。結婚した。1923年、関東大震災に被災し岡山に還る。1926年、フランスのミレーに憧れ、自ら三玲に改名した。1929年、美術研究・思想的発展のためとして京都に移る。1931年、日本花道芸術学園を設立する。1932年、日本庭園の研究団体、京都林泉協会の会長職に就く。華道草月流の創始者、勅使河原蒼風(1900-1979)らと生花の革新を唱える。1933年、「新興いけばな宣言」を起草した。1934年、室戸台風で各地の庭園が被災し、1936年-1938年、全国の庭園の精緻な実測調査(300カ所以上)を行う。1949年、前衛的な生花の創作集団「白東社」を主宰し、前衛生花作家・華道家の中川幸夫(1918-2012)も参加した。1950年頃から、アメリカ合衆国の彫刻家・画家のイサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904-1988)とも交流を深めた。78歳。
 庭園については、全国の200あまりの作庭に関わる。本格的に作庭した京都では、東福寺方丈庭園(1943)に始まり、京都林泉協会30周年記念の瑞峯院庭園(1961)、最後の作庭は松尾大社庭園(1975)になった。「永遠のモダン」を目指した。
 1936年以来、独自に行った全国の庭園の実地調査を行う。それらの結果をまとめた第1次調査『日本庭園史図鑑』(全26巻、1939年完)、1971年からの第2次調査『日本庭園史大系』(全35巻、1976年完)が刊行されている。実測図は、1955年、金閣寺再建、2011年、東日本大震災後の被災した庭園修復にも参考にされた。
◆仏像 本堂安置の「聖観世音(しょうかんぜおん)菩薩立像」は、平安時代の慈覚大師(円仁、794-864)の作という。栂尾(とがのお)善妙寺(ぜんみょうじ)村の聲實庵より遷された。
 左手に蓮を持つ。右手は開花を促すように添えている。
◆浮かれ猫  鎮守・弁天堂(弁財天社)には、絵馬「浮かれ猫」(現在は複製)が掲げられている。左下に大きく白黒の二毛猫(三毛猫?)、右上に白い牡丹と右上端に小さく蝶が描かれた構図になる。古くより富貴と長寿の吉祥図とされていたという。この界隈、千本出水付近に伝わる「出水の七不思議」の一つに数えられている。
 伝承がある。江戸時代には、この周辺を西寺町といった。江戸時代後期に遊里「五番町(ごばん-ちょう)」があったという。ある時、三味線の音につられ、絵馬の猫が抜け出し浮かれた。猫は女性の姿に化け、踊り始め大騒ぎになる。それを見た者も現れ、「浮かれ猫」と言いはやされた。5世・松堂(?-1811)住職は不快に思い、法力により絵馬に封じ込めたという。
 その夜、衣冠束帯に威儀を正した武士が住職の夢枕に現れた。「私は絵馬の猫の化身だが、あなたに封じ込められ不自由で耐えられない。今後、世間を騒がせないので許してもらえないか」と嘆願した。住職は哀れに思い、その法力の封を解いたという。
 この話は世に広まり、人気商売に利益があるとして、弁天堂には三味線など諸芸上達祈願の信仰が生まれた。以後、島原・祇園の名芸妓・舞妓の参拝が増えたという。 
 当時、遊女のことを隠語で「猫」といったという。戦前まで、付近には芸妓さんが住んでいた。遊郭は、現代、1958年に廃されている。
◆玉照神社 境内にある鎮守社の玉照神社は、かつて創建の願主だった伏見宮邸内より遷したという。  
◆庭園 近現代の作庭家・重森三玲(1896-1975)による3つの枯山水式庭園がある。
 ◈「心和の庭(東庭)」は、現代、1967年に本堂東に重森により作庭された。11世・透関の依頼による。当寺の山号が心和山であり、さらに住職の姓の心山(むねやま)に因み、「心」形の枯山水式庭園が作庭された。
 100坪(330㎡)/60坪(198㎡)ほどの地割になる。この地にはかつて池があったという。北・東の二方が土塀(白壁)、南は竹垣になっている。海島風景の庭であり、白砂(大海)、苔地(島々)、立石(山々)のみで構成されている。これまで、枯山水式で心字池の庭(心字庭)の作例はなかったという。重森により、地模様による草書体の心字形に変えられている。
 白砂に苔地で盛り上げ州浜にして形を造り、その築山の上に12の石が据えられている。心字四島と七五三配石が組み合わされている。
 4つの島があり、「心」字の一画め(左端)の方丈島(1石)、二画め(手前)の最も大きな蓬莱(ほうらい)島(7石)、三画め(奥左)の瀛州(えいしゅう)島(2石)、四画め(奥右)壺梁(こりょう)島(2石)になる。蓬莱島の最も奥に、一段高い立石の本尊石(主石)があり、左右の二石で三尊石組になっている。本堂側から観ると北側のこの三石の石組は三尊立石になっている。本尊石と本堂内の本尊は向き合い呼応しているという。
 石はすべて苔地の上に立てられている。徳島産の青石12石(横石7石 伏石5石 立て石3石)による。「七五三の庭」でもあり、本尊石を中心にして、北よりに3石(本尊石+2石)、手前に7石(本尊石+6石)、奥に5石(本尊石+2石+2石)の七五三石組を構成している。
 白川砂の白砂地に引かれた砂紋は、当初は青海波(せいがい-は)だったという。穏やかな波がどこまでも続く様を表現した。その後、大渦巻紋になる。現在は、直線の砂紋が加えられ引かれている。
 南西の半大渦巻紋内に、草の様なものが残されている。かつてこの地が池だった時に、菩提樹が植えてありその名残として庭内に残された。まだ、生きているという。
 南の竹垣は建仁寺垣で組まれ、「心」の字の意匠(3字)が直線により抽象化されている。
 ◈「心月庭(しんげつ-てい)」は、現代、1974年に庫裡前に重森により作庭された。重森最晩年の作であり、その半年後に亡くなったという。「心月」とは、「心の真実」を月に譬えている。
 モルタルで州浜形に縁取られた州浜台座(高さ30㎝)の上に、白砂の砂紋が引かれている。白砂上に2石、1石は州浜を割って据えられている。全体で5石があり、須弥山の形になる。中心に立てられた主石は先端が鋭く尖る。その頂点の延長線は、庫裡妻の中心線と完全に一致している。一段下の庭面は龍の髭で覆われ、縦4m、横3mほどある。かつて、ここに松の老木があり、その後枯死したため作庭されたという。金閣寺垣で囲まれている。
 ◈本堂南に枯山水式の「南庭」がある。重森が作庭した。かつて庭に使われていた5石の残石が用いられ、東西に並べられている。
 軒内は「根来式の創作」としたと重森は書き残している。 
◆無本寺 当寺は、かつて無本寺格(むほんじ-かく)として宮準門跡に列せられた。
 ◈本末関係(本末制度)は、本寺と末寺という寺院間の上下関係を指していた。近世には、幕府の政策の影響も受け、宗派別の本末制度が確立した。各宗派の本山を頂点とし、全国各地の末寺が編成された。
 本山に直属する直末寺(じきまつ-じ)の下に、更に末寺が形成され、重層的な本末制度が形成された。他方、少数ながら本末関係上の本寺を持たない無本寺(むほんじ)寺院もあった。
 ◈准門跡(じゅん-もんぜき)は、中世(鎌倉時代-室町時代)後期以降の寺格を表わし、「脇門跡」とも呼ばれた。幕府は門跡寺院を時々の住持族姓により制度化した。
 皇子入室の寺を「宮門跡」、伏見・有栖川・桂の三宮家入室の寺を「親王門跡」、摂家(せつけ、五摂家)入室寺を「摂家門跡」、清華(せいが)家入室寺を「清華門跡」とした。
 江戸時代に准門跡はこれに准じられ、京都ではほかに東西本願寺・興正寺・仏光寺などがあった。 
◆七番町
 一番町より七番町までの町名は、安土・桃山時代、1587年に豊臣秀吉(1537-1598)が聚楽第を築くにあたり、大内裏址の内野に一番から七番の組屋敷を置いたことによるという。1595年の聚楽第の廃絶後には荒地が寺地になったという。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)には五番町という遊廓が栄えた。近代、付近には映画館が数多く営業する。西陣織工の憩の場になり一大歓楽街になった。
◆墓 かつて、岩倉家の菩提寺だった。公卿・岩倉具視(1825-1883)などの岩倉家菩提寺だった。岩倉恒具(1701-1760)ほか30人の墓があったという。その後、西賀茂・霊源寺(北区)に移された。
◆年間行事 春季彼岸会(施餓鬼法要・法話)(3月19日)、盂蘭盆会お施餓鬼(8月10日)、お精霊送り(8月16日)、秋季彼岸会(施餓鬼法要・法話)(9月22日)、除夜の鐘(12月31日)


*普段は非公開。
年間行事は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 「光清寺の案内-光清寺」、「心和山光清寺『心和の庭』作庭について 重森三玲-光清寺」、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都市の地名』、『京都大事典』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『重森三玲 庭園の全貌』、『シリーズ 京の庭の巨匠たち 1 重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』、『重森三玲 モダン枯山水』、『京都秘蔵の庭』『京の寺 不思議見聞録』、『京都大事典』 、『60回記念 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』、ウェブサイト「光清寺」、「港区-デジタル版 港区のあゆみ:港区史 通史編 近世(上)」、ウェブサイト「玉藏院」、ウェブサイト「コトバンク」


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光清寺 〒602-8359 京都市上京区七番町339,出水通六軒町西入ル南側   075-841-5630
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