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鍬山神社 (京都府亀岡市) Kuwayama-jinja Shrine |
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鍬山神社 | 鍬山神社 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 鍬山宮 ![]() 鍬山宮 ![]() 鍬山宮、兎の神紋 ![]() 鍬山宮 ![]() 鍬山宮 ![]() 鍬山宮 ![]() ![]() 八幡宮 ![]() 八幡宮 |
亀岡の鍬山神社(くわやま-じんじゃ)は、面降山(めんこうやま、天岡山)の東麓に位置し、紅葉の名所として知られている。 祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)。 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「丹波国桑田郡十九座」の一つ、「鍬山神社」に比定されている。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 飛鳥時代、709年、創祀されたという。鍬山大明神、矢田社とも呼ばれた。(社伝)。当初は面降山裏、医王谷(いおうだに)にあり、医家・丹波康頼が信仰したという。 平安時代、927年、『延喜式』神名帳にも丹波国桑田郡十九座の一つとして記された。 1165年、八幡宮社が祀られる。 安土・桃山時代、1576年、明智光秀の丹波進攻に際し、光秀は当社前に別当寺・大智院を建立した。以来、当社社殿は荒廃し、当社の矢田祭礼も廃れたという。 1591年、亀山城主・小早川秀秋は当社に禁制を下す。(『矢田之詞記』) 1595年、亀山城主・小早川秀秋は禁制を下した。(『矢田之詞記』) 1601年、亀山城代・北条左衛門大夫が法度を下す。(『矢田之詞記』) 江戸時代、1610年、亀山城主・岡部長盛の時、社殿が現在地に建立された。岡部は当社に禁制を下している。(『矢田之詞記』)。その後も、歴代藩主による神田寄進、保護が続く。 1681年/延宝年間(1673-1681)、郷長(町年寄)・杉原守親は「丹波桑田郡矢田郷矢田社之祭法」を撰し、当社祭の復興に尽力した。藩主も保護を行う。口丹波一の祭りとして祭礼行列は城内にも入り、藩主の拝礼を受けていた。 ◆丹波康頼 平安時代前期-中期の医家・丹波康頼(たんば-の-やすより、912-995)。詳細は不明。丹波国天田郡(福知山市)、または桑田郡矢田(亀岡市)に生まれたという。旧姓は劉芳氏といい、漢からの渡来系坂上氏、また、尾張氏一族の丹波国造家・丹波直子孫ともいう。984年、中国の医書を参考にして、『医心方』全30巻を編じ朝廷に献上した。現存する日本最古の医学書とされている。その功績により、朝廷から丹波宿禰(すくね)姓を贈られ、以来、医家になる。現在の亀岡市下矢田町に住み、近くの鍬山神社に日参し医術向上に励んだという。最上級の薬草を育て針博士になったという。「医王谷」の地名はいまも残されている。官位は従五位上・医博士、丹波介、左衛門佐(さえもんのすけ)兼丹波介。84歳。 鍬山神社(上矢田町)には、康頼が同社に日参し、医療の神・大国主命に祈願したという江戸時代の古文書が残る。 ◆建築 現在の本殿(京都府登録文化財)、八幡宮本殿(京都府登録文化財)は、江戸時代、1814年に建立された。一間社流造、杮(こけら)葺。 ◆神話・伝承 かつて亀岡(亀山)盆地は赤土の泥湖だったという。「丹の湖/丹の海(にのうみ)」と呼ばれていた。出雲大神、また、諸国巡国中の大己貴命(大国主命、おおくにぬしのみこと)は、黒柄山(くろがらやま、黒柄岳)に八神を集めた。一艘の樫船に乗り、一把の鍬や鋤で浮田(請田)の峡(現在の保津峡の口)を切り拓く。湖に溜まっていた水を山城国に流し、亀岡盆地を肥沃な農地に変えたという。 以来、出雲大神を天岡(あまおか)山の麓に祀り、鍬山大明神と呼んだ。社名は開削に使った鍬が山積みになったことから、その神徳を称えたことによるという。その後、鍬山大明神は神無月の出雲国での神会には加わらず、郡内8神は当社に集まっていたという。(社伝、『矢田之詞記』)。 当社に並列して祀られている八幡宮にも伝承がある。平安時代、1165年、天岡山に誉田神(誉田別尊[ほむたわけのみこと] 、第15代応神天皇)が天降り、当社の傍らに祀った。夜毎に雷雨になり殺伐の声がした。翌朝、鳩や兎の死骸があり、人々は二神が不仲と知り、八幡宮は杉谷に遷した。江戸時代、1609年、亀山城主・岡部長盛が現在地に社殿を移し、再建した際に、二神の間に池を設けて互いの諍いを防いだという。(『矢田之詞記』) ◆能楽 当社で行われていた神事芸能の一つに、現在の能楽の源流の一つになる丹波猿楽(矢田神楽)があった。当社は本所になり、平安京、摂津・河内など各地に出向いて披露していた。室町時代、御香宮神社の猿楽では楽頭職を務めていた。安土・桃山時代、1576年、明智光秀の丹波進攻の混乱によりその後、廃れた。 ◆亀岡祭 当社の秋季大祭(10月23日-25日)は鍬山宮・八幡宮二社の例祭であり、亀岡最大の祭りになる。分霊の神輿が御旅所に渡御・還御する。祇園囃子に乗せ、豪華な懸装品に飾られた11基の山鉾が市内を巡行することから「丹波(口丹波)の祇園祭」と呼ばれている。京都府登録無形民俗文化財、亀岡市無形民俗文化財に指定された。 近世(安土・桃山時代-江戸時代)には、旧暦9月25日より1カ月をかけて祭礼が執り行われていた。朔日(初日)には氏子領界8所に結界を張り、最後の神輿還御まで祭礼は続いた。安土・桃山時代、1576年、明智光秀の丹波進攻以来、神田を没収されたことから当社の矢田祭礼も廃れたという。 その後、1681年、郷長(町年寄)・杉原守親が「丹波桑田 郡矢田郷矢田社之祭法」を撰し、当社祭の復興に尽力した。歴代亀山城主が神領等を寄進するなど保護した。祭りは次第に隆盛になり、口丹波一の祭りになる。祭礼の行列は城内にも入り、藩主の拝礼を受けた。 当初の山鉾は風流流造山の舁山(かきやま)で人が担いでいた。江戸時代、1749年以来、三輪山の山鉾が造られる。その後、山鉾の建造が相次ぐ。1831年の樫舟(船鉾)の改修以来、移動が容易な車輪を付けた曳山(ひきやま)に移行していった。山鉾の建造には、功を遂げた商人が資金を供していた。 現在、各山鉾町に11基の山鉾があり、曳山7基、舁山が4基になる。懸装品には、西陣の大型綴錦、中国、朝鮮、インド、イギリスなどの豪華な染織品が用いられている。 ◆年間行事 亀山祭(10月1日-31日)、氏子領境八箇所御斎榊(おいみのさかき)立て・吉符入り(神事始め)(10月1日)、くじ取り式(10月5日)、神幸祭(形原神社御旅所でのおいで祭り)、各山鉾町での会所飾り・御神輿飾り(10月20日)、神幸祭(形原神社御旅所での御出[おいで] 祭、各山鉾町での会所飾り)(10月23日)、宵々山(各山鉾町での山建て・花灯路設置)(10月24日)、宵宮(形原神社御旅所祭)(10月25日)、本祭山鉾巡行・還幸祭・大祭・御神輿お山入り、御神輿仕舞い(10月26日)、神事済奉告祭(10月31日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 当社由緒、『京都府の地名』、『京都府の歴史散歩 下』、『増補版 京都の医史跡探訪』、『京の医学』、『新版 京・伏見 歴史の旅』、ウェブサイト「亀岡祭山鉾連合会」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 八幡宮、本殿 |
![]() 八幡宮 |
![]() 八幡宮、木鼻 |
![]() 八幡宮 |
![]() 八幡宮、神紋、番鳩 |
![]() 八幡宮 |
![]() 天満宮 |
![]() 天満宮 |
![]() 百太夫神社 |
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![]() 稲荷疱瘡神社 |
![]() 熊野神社 |
![]() 日吉神社 |
![]() 右より高樹神社、樫船神社、金山神社、 |
![]() 厳島社 |
![]() 安産石 |
![]() 池泉 |
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![]() 解藤泉 |
![]() 解藤泉、手水舎の湧水 |
![]() 解藤泉、毘沙門天 |
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