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神童寺 (京都府木津川市) Jindo-ji Temple |
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神童寺 | 神童寺 |
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![]() ![]() 城郭のような寺の石垣、伊賀街道に面している。 ![]() 表門 ![]() 表門 ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() ![]() ![]() 護摩堂 ![]() ![]() ![]() 鐘楼 ![]() 鎮守社 ![]() 十三重石塔 ![]() 石仏群 ![]() 収蔵庫の建つ山腹よりの東の景色 |
山城町神童子、伊賀街道沿いの山間に、神童寺(じんどう-じ)は建つ。多くの重要文化財指定の仏像を安置しており、「文化財の宝庫」といわれている。 金剛蔵院(こんごうぞう-いん)、金剛蔵王院ともいう。山号は北吉野山という。 真言宗智山派。本尊は蔵王権現を安置する。 かくれ古寺南山城六山めぐりの一つ、京都南山城古寺の会に参加。 ◆歴史年表 創建の詳細は不明。 この地は、古くより山岳信仰の霊地、修験道の聖地になっていた。 飛鳥時代、596年、厩戸王(聖徳太子)が建立したともいう。自ら千手観世音菩薩像を刻み、大観世音教寺と号したともいう。(『北吉野山神童寺縁起』、実淳光観、1522/1544) 675年/676年/652年、役行者(役小角)が鷲峯山(じゅぶせん)で修行し、自ら蔵王権現を刻み本尊とし、神童教護国寺と称したという。(「北吉野山神童寺縁起」)。北吉野山神童寺と称したともいう。 682年、義淵僧正の開基によるともいう。(『興福寺官務牒疏』) 722年、泰澄は当山に登り、鷲峯山を北山上、山号を北吉野山とした。その後、衰微する。 平安時代初期、9世紀(801-900)、奈良興福寺の願安が再興したという。以後、法相、真言兼学道場になる。 1180年、以仁王の挙兵に対した平重盛の二男・資盛の兵火により、本山、26坊を焼失した。 1190年、後鳥羽院(第82代)の沙汰により、源頼朝が再建した。 鎌倉時代、1331年、兵火により焼失する。 室町時代、1399年、官務四家により再建された。(『興福寺官務牒疏』) 1406年、奈良・興福寺官務懐乗により、蔵王堂(現本堂)が再建される。時代は不明だが、一時期、興福寺末寺だったという。 近代、1868年に興福寺の一乗院より山門が移された。 現代、1968年、収蔵庫が建立される。 ◆役行者 飛鳥時代の山岳呪術者・役行者(えん-の-ぎょうじゃ、634?-?)。男性。役小角(えん-の-おづぬ/しょうかく)、役の優婆塞(えん-の-うばそく)、役君(えのきみ)。大和国(奈良県)の生まれ。賀茂一族(高賀茂朝臣)の出身ともいう。生駒山、葛城山、大峰、熊野で修行した。吉野金峰山を開く。32歳の時、葛城山で孔雀明王の像を岩窟に安置し、持呪観法したという。699年、弟子・韓国広足(からくに-の-ひろたり)は、役行者が妖言を吐いたと密告し、伊豆国に流罪にされる。701年、赦された。数多くの呪術的な伝承が残された。富士山、九州の山々で苦行し、前鬼、後鬼の二鬼を従えたという。神仏調和を唱え、真言密教の呪法を使う仏道修行者、呪術に優れた神仙、道教の医術方術に習熟した行者とさる。修験道の開祖になる。 平安時代初期-中期以降、山岳信仰、密教と結びつき伝説が生まれた。江戸時代後期、1799年、朝廷より神変大菩薩の勅諡号が贈られた。 ◆泰澄 飛鳥時代-奈良時代初期の修験道・泰澄(たいちょう、682/693-767)。男性。俗姓は三神、通称は越(こし)の大徳、号は神融禅師、泰澄和尚。越前国(福井県)の生まれ。父・豪族・三神安角(みかみ-の-やすずみ)の次男。14歳の時に出家し、法澄と名乗る。越智山(おちさん)に上がり、十一面観音を念じて修行を積む。702年、第42代・文武天皇により鎮護国家の法師に任じられる。717年、霊夢の導きで弟子の浄定(きよさだ)らと越前国の白山に登り、十一面観音(妙理大菩薩、白山三峰の神)を感得した。山に3年間籠もり修行を続けた。719年より、諸国での布教活動を行う。722年、第44代・元正天皇の病気平癒を祈願し、天皇の護持僧に任じられる。その功により神融禅師の号を賜わる。725年、白山に登った行基と出会い、白山権現の由来を伝えたという。737年、疱瘡を十一面観音法を修して鎮め、泰証の号、大和尚位を贈られた。泰証を自ら泰澄に改めたという。後に越知山に帰り、木塔百万基を造り人々に与えたという。 加賀国(当時越前国)白山を開山し、白山山岳信仰の祖とされる。大和・吉野山、京都・稲荷山で修行し、愛宕山を開く。九州・阿蘇山で奇跡を起こしたという。86歳。 ◆願安 平安時代初期の僧・願安(?-? )。詳細不明。男性。奈良興福寺の僧、興福寺の僧で伝燈大法師位を授けられた。神童寺を再興し、弘仁年間(810-824)、近江・金勝寺に伽藍を建立した。 ◆仏像 ◈本堂に本尊「蔵王権現像」が安置されている。役行者が自ら刻んだという。彩色木造になる。 向かって右に「前鬼像」左に「後鬼像」の三尊像が安置されている。いずれも室町時代前期、1406年に造仏されたとみられている。 前鬼、後鬼の間に「役行者像」も安置する。 ◈収蔵庫安置の「不動明王立像(162.1/161cm)(重文)は、平安時代後期(11世紀-12世紀/12世紀)作になる。「波切(なみきり)白不動尊」「白不動」といわれる。 園城寺の円珍(814-891)が唐から帰国する途上の海上で霊験があったとされる。ただ、円珍が渡唐前に感得したという黄不動画像(国宝)の写しといわれている。全国には数体しか例がなく、その最古のという。 肉身が後補とみられる顔料で、白く彩色が施されている。表情は童顔で威嚇せず穏やかにも見える。髪は一般的な弁髪ではなく巻髪、両目も開き、上歯で下歯を噛む形で両牙が上向きになっている。上半身は条帛(じょうはく)を身に着けない裸であり、乳首も表現されている。下半身に裳を身に纏い、裙を両膝上でたくしあげている。板光背の背後には、墨画の毘沙門天が描かれている。 木造、彩色。 ◈半丈六の「阿弥陀如来坐像」(137㎝)(重文)は、平安時代後期(12世紀)作になる。表情は円満で胸は薄く広い。蓮華座に坐し、来迎印を結ぶ。定朝様、泰澄自刻の伝承がある。台座も当初のものとされる。蓮弁は平行に配された吹寄せ式になっており珍しい。平等院鳳凰堂の定朝作の阿弥陀如来坐像と同様になる。 木造、寄木造、漆箔。 ◈「愛染明王(あいぜん-みょうおう)坐像」(64.5/65㎝)(重文)は、平安時代末(12世紀後半)作になる。重文指定の像は全国に3例しかなく、その最古という。このような愛染明王像は、天台密教の祖・円珍(814-891)ゆかりとされる。密教経典の『瑜祇(ゆぎ)経』中の「衆星の光を射るがごとし」を造形化したとされる。 身体は細身であり、優美さ洗練さを表現している。獅子冠を被り、抑制された忿怒相であり、一面に3つの目を持つ。6臂のうち胸前の2臂の右に五鈷杵、左に五鈷鈴を持つ。「天弓(てんきゅう)愛染」と呼ばれる。肩から出た二手は頭上で天に向け、垂直に弓を射ようとしている。珍しい例とされている。調伏(ちょうぶく)の意図があり、怨敵・悪魔・敵意ある人物を呪殺した修法の可能性があるという。台座、円形の光背と束が宝瓶形式であり造仏当初のものという。 木造、寄木造、彩色。 ◈「毘沙門天像」(124.2cm)(重文)は、平安時代後期(11世紀)作になる。古様であり、岩座に立ち、兜、鎧を身に着け、白い彩色の後が残る。右手に三叉戟(さんさげき)、左手に宝塔を載せる。かつて、行者堂に安置されていた。 木造、寄木造、彩色。 ◈「日光菩薩像」(162.4cm)(重文)は、平安時代前期(藤原時代初期、9世紀-10世紀/10世紀前半)作になる。等身大であり、右腕を伸ばし左腕を屈している。地方仏師の手によるという。もとは薬師如来の脇侍だったとみられる。江戸時代後期、1833年に近くの薬師寺が神童寺に併合され、近代に入り遷されたという。 木造、一木造、彩色。 ◈「月光菩薩像」(171.5cm)(重文)は、平安時代後期(11世紀/12世紀前半)作になる。等身像であり、日光菩薩像とは作風が異なる。中央の仏師作によるとみられ定朝様になる。右腕を伸ばし左腕を屈している。もとは薬師如来の脇侍だったとみられている。江戸時代後期、1833年に近くの薬師寺が神童寺に併合され、近代に入り遷されたという。 木造、寄木造/一木造とも、彩色。 ◈「吉祥天立像」(97cm)は、平安時代(9世紀)作になる。南都系に見られる豊満な貞観彫刻になる。 木造、一木造、彩色、内刳りはない。 ◈「毘沙門天立像」は、平安時代末(12世紀)作になる。頭部が小さく細見になる。 木造、一木造、彩色。 ◈「菩薩型立像」(115cm)は、平安時代(9世紀)作になる。木造、一木造、彩色。 ◈木造「千手観音立像」は平安時代後期(11世紀)作になる。 ◈木造「阿弥陀如来坐像」は鎌倉時代初期作になる。 ◆建築 ◈「本堂」(重文)は室町時代前期、1406年に再建された。山城町最古の建物という。方3間、3間1間の向拝が付く。寄棟造、本瓦葺。前面に一間通りの吹放しの広縁付きになる。内部は周囲一間の内陣、和唐様折衷の須弥壇があり、本尊ほか諸仏を安置する。拭板の床、棹縁天井になる。本尊の蔵王権現を本尊とすることから蔵王堂ともいう。 ◈「護摩堂」(町指定文化財)は、方3間宝形造、本瓦葺、内部は折上小組格天井。 ◈「表門」(町指定文化財)は、江戸時代中期とみられ、切妻造、本瓦葺。棟門の様式で二本の主柱に冠木と呼ぶ横木を渡し、その上に切妻屋根を載せている。近代、1868年に奈良・興福寺の一乗院より移されたという。 ◆石造文化財 ◈境内に立つ鎌倉時代後期の「十三重石塔」は、初層軸部、二重円光形に顕教四仏を刻む。屋根は後補、花崗岩製。 ◈境内の覆屋内に、室町時代後期の「地蔵石仏」2体が安置されている。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ、花崗岩。 ◈墓地の鎌倉時代後期の「腰折地蔵(地蔵石仏)」は、右手に錫杖を持たず、左手に宝珠を持つ。足に靴を履くのは、地獄まで赴いて衆生救済のためという。花崗岩製。 ◈墓地の「地蔵石仏龕(がん)」は、基礎石の上に一石で長方形の龕(厨子)と、その内に地蔵菩薩を肉彫りしている。手に錫杖と宝珠を持つ。さらに龕の上に別石の屋根が載せられている。鎌倉時代末期-南北朝時代のものという。 ◆文化財 ◈「伎楽面」(重文)は、32cmあり、面裏に鎌倉時代前期、「建久七年(1196年)」の朱漆銘がある。運慶父の泰慶作といわれている。桐材に彩色した崑崙(くろん/こんろん)の面になる。奈良国立博物館寄託。 ◈版本「大般若経」約600帖、紙本著色「神童寺伽藍図」1幅には、往時の塔頭26坊の伽藍が描かれている。 ◈本堂に室町時代の「鬼瓦」(重文)、「修理棟札」(重文)。 ◈祈願所の令旨により有栖川宮より贈られたという「菊花紋章の幕」。 修験道 この地は、古くより山岳信仰の霊地であり、修験道の聖地になっていた。 神童寺は、飛鳥時代の聖徳太子(574-622)の開創によるとされる。本尊・蔵王権現は、修験道開祖・役行者(634?-?)らが刻んだという。山岳修業の場だった神童寺は、奈良吉野・金峯山修験本宗の総本山である金峯山寺(きんぷせん-じ)の影響下にあった。全盛期には26もの堂宇を有する巨大寺院になり、吉野山に対して「北吉野山」と号していた。 ◆伝承 飛鳥時代、675年/676年、役行者が寺を訪れ、鷲峯山で57日間の行法後、谷に下りての行中に童子が現れた。傍らの石楠花(しゃくなげ)は霊木であり、これで仏を刻み、衆生済度せよという。自らを子守、勝手、金精(こんせい)、佐抛(さなげ)の四神(子守、勝手、金精の三神とも)と名乗り、常に樹を守護すると言い残して天に飛び去った。役行者は37日間祈り続け、満願の日の暁に大地鳴動した。地中が光明を放ち忿怒の形相の蔵王権現が顕れ、やがて虚空に消えた。役行者はすぐに石楠花の木で蔵王権現を刻む。南方より二人の神童が現れこれを援けたため、像は忽ちにして完成した。神童は自らを天八百日尊(あめのやおひのみこと)、天三下尊(あめのみさがりのみこと)と名乗り、永く伽藍を擁護すると伝え、去った。 役行者は蔵王権現像を麓の精舎に安置し、寺号も二神童に因み神童教護国寺に改めた。これら六神を勧請し、そのうちの四神(子守、勝手、金精、佐抛)を伽藍の守護神とし境内に祀った。二神童は、鎮守社の天神神社に祀る。また、役行者は自像も刻み開山堂に安置したという。(『北吉野山神童寺縁起』)。 その後、行基(668-749)、鑑真(688-763)、良弁(689-773)なども修法したという。 ◆伊賀街道 寺は京都から伊勢に向かう伊賀街道沿いにある。安土・桃山時代、1594年に巨椋池の小倉堤が築造され、大和街道が整備された。伊賀街道は綾杉で大和街道より分かれ、涌出宮の北より腰越え、神童寺、天神神社の脇を通り、桜峠、志め谷、瓶原郷を経て伊賀に通じていた。 江戸時代、お伊勢参りの道として「神童寺越え」と呼ばれていた。 ◆花暦 桜、ミツバツツジ(4月)、紅葉。 *建物内の撮影禁止、団体は要事前連絡。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『南山城の古寺』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都の寺社505を歩く 下』『京都の仏像』、『京都古社寺辞典』、『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来 (京都)』、『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』 、『日本の美仏図鑑』、『京都傑作美仏大全』、『ゆっくり愉しむ 京都仏像巡 りベストガイド』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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