高倉神社 (木津川市)  
Takakura-jinja Shrine
高倉神社  高倉神社
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春日社、高倉宮の銘が入る。




割拝殿


割拝殿


拝殿


拝殿・奥に本殿
 山城町綺田(かばた)にある高倉神社(たかくら じんじゃ)は、春日高倉社ともいう。平安時代の皇族・以仁王(もちひとおう)ゆかりの神社とされている。
 祭神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、以仁王を祀る。 
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 かつて興福寺領綺荘の地に、春日神社あり、藤原氏祖先神の天児屋根命を祀っていた。
 平安時代後期、1180年、以仁王は南都・興福寺へ向かう途中、南山城の加幡河原で平家の追討軍の流れ矢により亡くなる。その場所は光明山鳥居前(綺田小字鳥居付近)という。(『平家物語』巻4) 。王の遺体は、春日神社境内に葬られたともいう。
 その後、人々により塚が築かれ、神として祀られたものという。
 江戸時代後期、高倉宮神社が知られることになる。
 近代、1885年、高倉宮神社と改称した。
 1998年頃より、筒井浄妙に因み、祇園祭の浄妙山保存会と高倉神社の交流が始まる。
以仁王 平安時代後期の皇族・ 以仁王(もちひとおう、1151-1180)。第77代・後白河天皇の第3(第2とも)皇子。母は藤原成子。高倉宮、三条宮とも呼ばれた。
 天台座主・最雲法親王弟子となるが、1162年に師没後還俗する。1165年、八条院暲子内親王の猶子となる。皇位継承争いで、異母弟憲仁親王(第80代・高倉天皇)生母・平滋子により阻まれた。父と確執もあり親王になれなかった。1179年、平氏の後白河法皇幽閉に伴い、王の寺領は没収された。1180年、源頼政の勧めにより平清盛・平家追討の令旨(りょうじ)を発した。だが、最勝親王と称した挙兵計画が漏れ、皇族籍剥奪、土佐配流と決まる。検非違使の王の館襲撃から脱し、園城寺から興福寺を頼り奈良へ向かう。途中、この綺田付近で追手の藤原景高・藤原忠綱らにより討たれたという。『平家物語』『源平盛衰記』に描かれている。学問、詩歌、書、笛に秀でた。
◆筒井浄妙 平安時代後期の僧・筒井浄妙(生没年不詳)。近江・園城寺(三井寺)浄妙坊の寺法師(僧兵)。1180年、源頼政と以仁王の挙兵に従い、平氏との宇治川の戦いで敵の矢を受けても奮戦したという。
◆一来法師 平安時代後期の僧・一来法師(いちらい、生没年不詳)。園城寺乗円房の阿闍梨慶秀に仕えた。筒井浄妙の弟子として、1180年、平氏との宇治川の戦いで奮戦、一番乗りをし討死したという。
◆宇治川の合戦(橋合戦) 1180年の以仁王の挙兵から引き続く、1185年の壇ノ浦の戦で平氏滅亡までの内乱を治承・寿永の内乱(源平争乱)という。
 1180年4月、以仁王の平氏追討の令旨を下す。5月に王の挙兵計画が露見し、平氏は王を臣籍降下させ、源以光と改め、土佐国への配流を決めた。5月15日、検非違使別当・平時忠らは、300騎により王の三条高倉邸襲う。王は、女装して脱し園城寺へ逃れる。16日、平清盛は寺に王の引き渡しを求めたが、園城寺大衆は拒否した。王は興福寺と延暦寺に協力を呼びかけたが延暦寺は拒否した。21日、平氏の源頼政を大将とする攻撃に対し、頼政は王に合流した。25日夜、王らは1000騎で寺を脱し、興福寺へ向かった。平氏は知盛、重衡を大将とし、2万8000騎で追う。王は疲労のためやむなく平等院に入る。26日(6月20日)、平氏は宇治川に迫り、頼政の軍は宇治橋の橋板を落とす。互いに矢戦となり、浄妙、一来らの僧兵らが奮戦したという。平家の足利忠綱、坂東武者300騎が渡河を始めたため、頼政は平等院に退却する。王を逃すため防戦し、劣勢となり頼政は自害した。
 王は30騎を連れ平等院から脱し、奈良へ向かった。途中、この山城国綺田で平家家人の藤原景高・藤原忠綱の追討軍の矢により落馬し、討たれたという。
 なお、宇治川の合戦の頼政の軍勢は500騎、50騎とも、平氏は300騎ともいう。
◆綺田鳥居 高倉神社の西、小字鳥居には、かつて光明山寺の鎮守社の鳥居があったことから名付けられた。寺院の境内は綺田一帯に広がっており、山背街道付近にあった参道は、ここより東の山まで続いていた。
 平安時代、1180年、以仁王は宇治を落ち奈良・興福寺へ向かう途中、南山城の加幡河原の光明山鳥居前(綺田小字鳥居付近)で討死した。その直後に南都よりの援軍が到着したが、王は殺害されたために引き返したという。王の首は太刀長刀の先に貫かれ、京都に戻されたという。
 鳥居は『平家物語』中に登場する。「案のごとく宮は参騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居のまえにて追ッつきたてまつり雨の降るやうに射まひらせければ、いづれが矢とはおぼえねど宮の左の御そば腹に矢一すぢ立ちければ、御馬より落させ給て、御頸とられさせ給ひけり…」(『平家物語』巻四「宮御最後」)。
 平安時代から鎌倉時代(12世紀)、この付近の参道両脇には松が植えられ、多くの卒塔婆が立てられていたという。また、境内南の浄妙塚のさらに南に、東西に流れる野田川(天神川とも)といわれる小川がある。この川はかつて、「もんぐち(門口)川」と呼ばれた。この付近に、光明山寺の山門があったことから名が付けられたという。
 なお、寺は、1180年、以仁王を追ってきた平家の軍により焼かれたともいう。
◆阿弥陀寺 高倉神社西に、以仁王に関わるといわれる阿弥陀寺が建つ。開基は、円輪といい、かつては阿弥陀堂三艸庵(さんそうあん)と称された。
 以仁王没後、仏事を営み、鎌倉時代、1192年に山号を高倉山と改めたという。境内に、鎌倉時代の厚肉彫の石造阿弥陀如来坐像が安置されている。 
◆墓 境内に宮内庁管理の以仁王大墓(おおば、御墓)がある。
 境内の南100mの水田地帯に、同じく宮内庁が管理する筒井浄妙塚がある。陪冢(ばいちょう)とされる。陪冢とは、主の死に従い葬られた近親・従臣の墳墓、また大規模古墳の周辺にある小規模古墳をいう。ただ、この小さな円墳は浄妙に従った一来法師の墓ともいう。
◆藻被りの池 境内の西に藻被りの池という小さな水溜りがあったという。かつては大きな池で、以仁王に従った者の中に臆病な者がおり、池に潜り藻を頭に被って平家の追手から逃れたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『木津川歴史散歩』『京都・山城寺院神社大事典』


  関連・周辺光明山寺跡      周辺蟹満寺      関連平等院(宇治市)      関連旦椋(あさくら)神社      関連初音の森(高倉宮跡) 

末社

末社

【参照】以仁王御墓、境内脇の一角にある。

【参照】「後白河院天皇皇子 以仁王御墓」の石標

【参照】境内南にある筒井浄妙塚


【参照】筒井浄妙塚、「治承役筒井浄妙塚」と石標にある。治承・寿永の内乱(源平争乱)は、1180年の以仁王の平氏追討の令旨、挙兵した治承役から、1185年の壇ノ浦の戦で平氏が滅亡するまで続いた。浄妙は宇治川の戦いで敵12人を射殺し、11人を負傷させたという。自らも63ヶ所の矢傷を負うが生き延びたという。その後、流されたとも、奈良に向かう以仁王に従いこの地で没したとも、そもそもこの墓は浄妙ではなく一来のものであるとも、以仁王の塚であるともいう。

【参照】境内西の藻被りの池跡?。地域の人の話では、数年前までここに小さな水溜りがあったという。現在は埋められてしまったという。周辺にはほかに、それらしきものないということなので、この付近が藻被りの池跡かもしれない。?

【参照】境内西にある阿弥陀寺

【参照】阿弥陀寺

【参照】阿弥陀寺

【参照】祇園祭の浄妙山、『平家物語』巻4の宇治川の戦(橋合戦)から題材をとった。平安時代、1180年、以仁王と源頼政は平家と宇治橋で戦った。源氏方の筒井浄妙(右)と一来法師が奮戦した。二人の先陣争いとなり、一番乗りの浄妙が橋桁を渡ろうとしたところ、一来法師が「悪しう候、御免あれ」と声をかけ、浄妙の頭上を飛び越えて先陣をとった。浄妙は、敵の63本の矢を受けたが、平等院門前に戻り逃げ延びたという。一来は、敵陣へ一番乗りを果たし討ち死したという。

【参照】浄妙山、宇治橋、「ここに乗円房阿闍梨慶秀が召し使ひける一来法師といふ大力の剛の者、浄妙坊が後ろに続いて戦ひけるが、行桁は狭し、そば通るべきやうはなし。浄妙房が甲の手先に手を置いて、『悪しう候ふ、浄妙房』とて、肩をづんど跳り越えてぞ戦ひける。一来法師つひに討ち死にしてんげり。」『平家物語』「橋合戦」
 高倉神社 〒619-0201 木津川市山城町綺田神ノ木地内    0774-86-2250
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