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頼風塚(男塚)・女郎花塚(女塚) (京都府八幡市) Grave of Ono no Yorikaze |
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頼風塚 | 頼風塚 |
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![]() ![]() 頼風塚、男塚の五輪塔 ![]() 女塚(女郎花塚)、松花堂庭園内 |
石清水八幡宮の東、八幡市民図書館近くの住宅地内に小さな五輪石塔が立つ。 平安時代の架空の人物、小野頼風(おの-の-よりかぜ)の墓とされる「頼風塚」「男塚」ある。塚には悲恋話が伝えられている。
◆歴史年表 南北朝時代、能役者・亀阿弥(きあみ、?-?)が謡曲「女郎花(おみなめし)」を作曲した。 室町時代、連歌師・宗碩(そうせき、1474-1533)が、『藻塩草(もしおぐさ)』(1513年頃)で塚を取り上げた。 ◆頼風 平安時代の架空の人物・頼風(おの-の-よりかぜ)。小野道風(894-967)の弟とされる。 ◆亀阿弥 南北朝時代の能役者・亀阿弥(きあみ、?-?)。詳細不明。初名は亀夜叉、通称は亀阿、喜阿、法名は喜阿弥。近江田楽の名手だった。観阿弥(1333-84)と同時代の人だった。「音曲の先祖」という。作曲に「汐汲(しおくみ)」「女郎花(おみなめし)」「禿高野(かぶろこうや)」など。 ◆宗碩 室町時代後期の連歌師・宗碩(そうせき、1474-1533)。詳細は不明。号は月村斎(げっそんさい)。尾張国(愛知県)の鍬鍛冶の子ともいう。飯尾宗祇に連歌を学び、高弟の一人になる。1502年、宗長と箱根湯本で宗祇の臨終を看取った。1510年、宗祇の種玉庵跡に庵を結ぶ。1522年、伊勢国桑名へ旅し、紀行『佐野のわたり』を記した。長門(山口県)で客死した。60歳。 三条西実隆、近衛尚通、細川高国らと親交した。美濃、尾張、能登、越前、九州、種子島にも下向した。歌論『藻塩草』、句集『月村抜句』、連歌『月村斎千句』など。 ◆逸話 平安時代初期、第51代・平城天皇の時(806-808)、八幡に住していた小野頼風は、訴訟があり京都へ上った。そこである美しい女と知り合い、契りを交わす。だが、やがて二人の間も冷めてしまう。ある時、女は八幡を訪れ、頼風がほかの女を娶って一緒に暮らしていることを知る。女は、悲嘆のあまり泪川(涙川)に身を投げたという。 頼風は女の骸を川辺に葬る。やがて、女が投身の際に脱ぎ捨てた山吹重の衣は朽ち、その辺にいつしか女郎花が咲いたという。頼風が花の元に寄ると、花はなびき退き、立ち退くと元のように戻ったという。女の死後も、女に嫌われていると知った頼風は、自責の念にかられ、泪川に身を投げて果てたという。人々は二人を哀れみ、男山の麓に男塚、女塚を築いたという。 室町時代、世阿弥とも亀阿彌作ともいう謡曲「女郎花」では、九州の僧が都へ上る途中で石清水八幡宮に参詣する。男山の麓に女郎花が咲いていた。旅僧が古歌「女郎花憂しと三つつぞ行き過ぐる男山にし立てりと思へば」に歌われた花を手折ろうとする。すると、一人の老翁が現れそれを制した。翁は野の花守と告げる。だが、僧が古歌に通じていたことから、翁は花折りを許した。翁は、社殿に続いて小野頼風夫婦の墓という男塚・女塚に僧を案内して消える。 夜半、僧が夫婦の菩提を弔い読経していると、二人の霊が現れる。法生川に身投げた女の霊は、二人の馴初めを語り、僧に回向(えこう)を乞う。 ◆男塚・女塚 当初は、女塚と同じところに男塚が築かれたという。だが、現在、女塚(女郎花塚)とされる五輪石塔は、男塚より南に1.5㎞離れた松花堂庭園(八幡女郎花)内の西隅にある。女塚の三方は石柵により囲まれている。基礎に福弁反花座、その上に四方仏の初重軸部、笠石が載る。鎌倉時代作という。その上のものは後補による。 頼風塚(男塚)の周りに生い茂る葦は、「片葉の葦」と呼ばれ、片方にしか葉が付かないという。葉は、南にある女塚の方にのみ、いつもたなびいているためであるという。 ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 女郎花塚 松花堂庭園 京都府八幡市八幡女郎花79 ![]() |
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