久我大臣之墓 (久我家墓所御墓山) (京都市伏見区)
grave of Koga-daijin
久我大臣之墓 久我大臣之墓 
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住宅地に囲まれた2m四方ぐらいの敷地が墓所としてかろうじて残されている。


「久我大臣之墓」、源(久我)雅実・雅通、また道元父・通親の墓ともいう。


裏に「明治四十五年(1912)建立 御墓山」とある。かつては五輪塔が立てられていたという。
 伏見区久我(こが)本町の新興住宅地に挟まれるようにして、「久我家墓所 御墓山(みはかやま)久我大臣之墓(こがだいじん-の-はか)」が残されている。
 鎌倉時代の曹洞宗開祖道元の父・源(久我)通親の墓ともいわれている。
◆歴史年表 平安時代中期、この地山城国久我庄は、村上源氏の祖・源(久我)師房(1008-1077)の記した『土右記』にすでに記されているという。その子・源顕房(1054-1114)は、伯父・頼道にならい、乙訓郡久世郷久我に水閣を中心にした別業「久我水閣」「久我山庄」を営む。また、この地は平安時代以来、久我家墓所となっていたともいう。
 1087年、白河上皇(第72代)は、久我の水閣を遊覧する。前斎宮・媞子(ていし/やすこ)内親王は、水閣に入りしばらく御所とした。 
 1108年、白河法皇は、顕房の子・雅実(1059-1127)の久我・水閣に御幸する。雅実以来、山荘内の墓所に葬られた。
 6代・通親(1149-1202)の代に、庄園久我庄として認可を受けた。
 平安時代末期、 1127年、3代・久我(源)雅実(1058-1127)の葬礼に際し6代・通親は、その父・雅通(1118- 1175)の墓を詣で、「ちりつもるこけのしたにもさくら花をしむ心やなほのこるらん」(「千載集」) と詠んだ。
 鎌倉時代、1200年、日本曹洞宗の宗祖・道元は、この地に生まれたともいう。また、宇治木幡(こわた)の祖父の別業・松殿家山荘に生まれ、その後間もなくして、久我の地に引き取られたともみられている。
 近代、久我家は東京に移り、付近は荒廃した。
 1879年、久我侯爵家により墓地として買収、整備された。
 現代、1945年、第二次世界大戦まで、久我家当主はこの地に墓参を訪れていたという。
 1988年、女優・久我美子が墓参に訪れる。
◆源師房 平安時代後期の公家・歌人・源師房(みなもと-の-もろふさ、1008?-1077)。久我氏、幼名はます宮、初名は資定(すけさだ)、資定王、土御門右大臣と称された。京都の生まれ。第62代・村上天皇皇子・具平(ともひら)親王の第1王子。母は具平親王兄・為平親王の娘。2歳で父と死別し、後に姉・隆姫女王の夫・関白・藤原頼通の猶子になる。1020年、元服し、源姓を賜与、臣籍降下し源師房に改めた。従四位下になる。1024年、公卿・藤原道長の5女・尊子(頼通の異母妹)と結婚し、藤原氏との関係により昇進を重ねる。1026年、権中納言に任じられる。従三位に昇り、1029年、従二位、左衛門督になる。1030年、公卿補任。1049年、内裏歌会で判者を勤仕した。1059年、娘・麗子が源師実と結婚する。右大将、内大臣を経て、1069年、右大臣になる。1074年、従一位。1077年、太政大臣の勅宣が出され、出家し亡くなる。歌は『後拾遺和歌集』以下に入る。著『叙位除目抄』、日記『土右記(どゆうき)』。70歳。
 村上源氏の祖、中院流祖。漢詩・和歌に優れ、歌合を主催した。有職故実の流派は「土御門流」と呼ばれた。
◆源通親 平安時代後期-鎌倉時代前期の公卿・歌人・源通親(みなもと-の-みちちか、1149-1202)。号は久我、土御門(久我)内大臣。村上源氏・久我雅通の子、母は美福門院(八条院)女房・典薬助・藤原行兼の娘。道元の父。はじめ花山院忠雅の娘を妻とし、仁安・嘉応年間(1166-1171)、平教盛の娘をめとり、1180年、参議、内大臣になり、土御門内大臣と号した。高倉天皇の近臣になる。1183年、平氏没落後は後白河法皇(第77代)に接近した。第82代・後鳥羽天皇の乳母・高倉範子を妻に迎えた。1192年、後白河法皇没後、法皇の寵姫・丹後局・高階栄子と結ぶ。範子の連れ子・養女・在子を後鳥羽天皇の後宮に入れる。1195年、在子は為仁(第83代・土御門天皇)を産みね、外祖父として権勢を振るう。源頼朝の娘・大姫の第82代・後鳥羽天皇入内問題により頼朝に接近した。1196年、政変により、源頼朝と提携する親幕派の関白・九条兼実を廟堂から追放する。松殿基房は、3女・伊子を側室とした。1198年、土御門天皇を即位させる。著『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記(しょうかき)』。54歳。
 正二位内大臣にいたる。贈従一位。土御門家繁栄のもとを築く。院の別荘水無瀬殿を造営した。文、和歌に優れた。歌は六条季経に学び、『千載集』以下の勅撰集に入集する。
◆藤原伊子 平安時代後期-鎌倉時代前期の女性・藤原伊子(ふじわら-の-いし、1167? -1207?)。松殿伊子、冬姫。藤原北家嫡流の一人で関白・藤原(松殿)基房の3女。1183年、源(木曽)義仲が後白河法皇(第77代)の御所法住寺殿襲撃後、義仲は失権していた父・基房と接近した。義仲は伊子を正室とする。1184年、義仲は源頼朝が遣した義経に攻められ戦死する。戦の最中、義仲は伊子との別れを惜しみ、部下2人が切腹して義仲を諌めたという。父・基房は伊子を公卿・源通親(基房の義理の弟)の側室に送る。伊子は、1200年、宇治木幡松殿家山荘で道元を産む。1202年、通親亡き後、母子で隠れ住んだという。
◆道元 鎌倉時代前期-中期の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。号は希玄(きげん)、字は仏法房、諡号は仏性伝東国師。承陽大師。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の3女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くす。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより1217年、臨済宗の建仁寺に移り栄西、その高弟・明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。杭州、台州を遍歴。1225年、明全が亡くなる。曹洞宗・長翁如浄に師事し曹洞禅を学んだ。1227年、如浄の法統を得て帰国、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向、1252年、病になり、翌1253年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。54歳。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』95巻(1230-1252)を著した。
◆久我家 平安時代後期-鎌倉時代前期に、源氏長者を世襲した村上源氏は、七家(唐橋、堀川、久我、六条、土御門、中院、北畠)に分かれた。その中で正統の久我家は、歴代がほぼ太政大臣の地位にあった。久我の地に荘園を得てからは、久我の姓を名乗るようになる。
◆墓 顕房は、北白川の村上源氏墓に葬られた。雅美(1059-1127)以来、山荘内の墓所(久我御墓山)に埋葬される。雅定、雅通、通親と続いた。
 第二次世界大戦まで、久我家当主はこの地に墓参に訪れていたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・宗祖の旅 道元』、『京都 道元禅師を歩く』、『日本の名僧』、『平安京散策』 、ウェブサイト「コトバンク」


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久我大臣之墓 〒612-8492 京都市伏見区久我本町4 

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