植髪堂 (京都市東山区)
Uegami-do Temple  
植髪堂 植髪堂
 Home  Home

青蓮院境内、「親鸞聖人得度聖地」の石標


植髪堂





植髪堂


植髪堂


植髪堂


植髪堂



植髪堂




親鸞の母(中央)が親鸞を産んだ際に、観世音菩薩(左)が夢に現れたという。その様が絵に描かれ堂内に飾られている。絵は、絵師・徳力善雪による「八幅絵伝」であり、親鸞400回忌法要のために描かれた。説明板より。



親鸞(中央)が戒師・慈円(慈鎮(右)により得度した際の様子が描かれている。親鸞の脇に角盥も描かれている。場所は、青蓮院宸殿の「親鸞聖人得度の間」という。説明板より。



親鸞得度の際に使われたという角盥



親鸞聖人遺髪塔



親鸞聖人遺髪塔



親鸞聖人遺髪塔脇に鹿の石像



子授観音像
 青蓮院の北に、植髪堂(うえがみどう)がある。青蓮院の境外仏堂になる。鎌倉時代の浄土真宗の宗祖・親鸞にまつわる。かつては、阿弥陀堂と呼ばれていた。
 本尊は阿弥陀如来。親鸞童形像などが安置されている。 
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 鎌倉時代、1181年、親鸞は青蓮院第3世門主・慈鎮の許で得度した。親鸞の母・吉光女(きっこうにょ)は、張子で親鸞の童形像を作ったという。親鸞の得度の際に剃り落された髪を、像の頭上に植え付け、常に自らの傍に置いていたという。その後長らく、像は青蓮院に蔵されたという。
 その後、像の存在を伝え聞いた人々は礼拝を請い、木像が新たに造られた。法衣を着せ、青蓮院末寺・金蔵寺(こんぞうじ)の御供屋に安置されていたという。
 江戸時代、享保年間(1716-1736)、天王辻子の本間紹信は、植髪像が親鸞像であるとした。その後、堂に安置するようになったという。(『梅室随筆』)
 1759年、8月、信者の一人が御供屋の東に御堂を建て、阿弥陀三尊を安置した。その傍らに像も安置され、堂は阿弥陀堂、植髪堂と称されたという。
 1767年、11月、1766年とも、御堂は華頂山北丘背後(知恩院背後の山? )に移された。寺号「華頂山阿弥陀寺」は江戸幕府に許されなかった。
 1783年、現在地の北、定法寺町(じょうほうじちょう、神宮道三条上ル東)に堂(阿弥陀堂)の建立計画があった。資金難により、植髪像は各地に出開帳したという。
 1794年、閏11月、定法寺町に移る。当初は真宗西本願寺に属した。
 1811年、1月に立柱、3月、入仏供養が行われた。その後も、堂は2度移築されたという。
 1838年以降、法会は、西本願寺、東本願寺が交替で勤めていた。
 近代、1880年、阿弥陀堂は青蓮寺境内の現在地に移転した。
 現代、1979年、堂の屋根の一部が抜け落ち、修復されている。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の浄土真宗の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都・日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身の吉光女(きっこうにょ)という。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し、範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川・首楞厳院(しゅりょうごんいん)の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷・大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子の一人として連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。
 浄土真宗の祖。浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
 1181年、9歳で叔父・日野範綱に伴われ、青蓮院・慈円(慈鎮)の許で出家得度し、範宴(はんねん)と名乗った。この時、日が暮れかかっており、慈鎮は、得度式を明日に延ばすようにいうと、親鸞は古歌「明日ありと 思ふこころの あだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」を引いた。慈鎮は、親鸞の思いの強さに打たれ、その夜のうちに儀式を行ったという。親鸞が得度した場所は、宸殿の「親鸞聖人得度の間」として遺されている。その後、親鸞は比叡山横川の首楞厳院で20年間修行を続けた。
◆吉光女 平安時代の親鸞の母・吉光女(きっこうにょ、?-?)。詳細不明。源為義の子、源義親の子ともいう。清和源氏・八幡太郎義家の孫娘ともいう。日野有範と婚姻する。1173年、親鸞を産む。
 張子で親鸞の童形像を作ったという。1181年、親鸞の得度の際に剃り落された髪を、像の頭上に植え付けた。常に自らの傍に置いていたという。親鸞8歳の時に亡くなったという。
◆慈円 鎌倉時代初期の天台宗の僧・慈円(じえん、1155-1225)。慈鎮。吉水僧正、無動寺法印。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光の娘。九条兼実の弟。1165年、11歳で延暦寺の 青蓮院に入り、1167年、覚快法親王の室に入って出家し、道快と称した。1181年、慈円と改名した。1192年、権僧正、天台座主、護持僧になった。1193年、座主を辞し、東山の吉水の祈祷道場大懺法院に住む。1196年、座主の地位を追われ、1201 年、再び座主になり、都合4度座主になった。1203年、大僧正になり、後鳥羽上皇(第82代)の護持僧になった。1221年、承久の乱後、新たに大懺法院を整備した。無動寺検校、四天王寺別当などを務めた。墓は比叡山東坂本小島坊、善峰寺にもある。
 公武協調した史書・史論書の『愚管抄』を著した。歌人として知られ、『新古今和歌集』、家集『拾玉集』にも多くの歌が収められている。
 慈円は天台座主でありながら、当時の新興宗教だった浄土宗開祖・法然、浄土真宗開祖・親鸞に理解を示し、延暦寺の圧力から庇護した。慈円が法然に与えた院内一坊跡に、法然没後、門弟の源智により勢至堂が建立され、知恩院の起こりになった。9歳の親鸞の得度に際して、剃髪の師になった。
◆像・仏像  ◈「親鸞童形像」は、堂の中央厨子内にある。8歳で得度した親鸞の植髪像になる。頭に真髪を植えたという。遺髪の一部は遺髪塔にも納められた。厨子は江戸時代、1763年に造られたという。
  ◈御前立の「阿弥陀如来立像」は、親鸞の童形像を模して造られたという。その階下には納骨壇が置かれている。
  ◈仏間左端に、「親鸞木像」が安置されている。12歳の親鸞を写したという。墨染姿で合掌する漆黒の木像になる。
  ◈その右に「親鸞の御真影」がある。親鸞の80数歳の姿という。
  ◈厨子の右に戒を授けた「慈鎮の絵像」が掛けられている。
  ◈左余間には「角盥(つのだらい)」が置かれている。親鸞得度の儀式の際に使われたという。
◆遺髪塔 堂の北東に、「親鸞聖人遺髪塔」が立てられている。親鸞の髪の一部を納めたという。近代、1940年に立てられた。
 
遺髪塔の脇に鹿の石像が置かれている。塔が建立された際に一頭の鹿が山から下りてきた。塔の前から離れようとしなかったという。
◆子授観音像 「子授観音像」がある。近代、1900年に立てられた。親鸞の母が親鸞を産む前に、観音菩薩の夢告があったという逸話に基づく。
◆金蔵寺 近代以前までは青蓮院の西にあり、青蓮院に属した。平安時代末期、永久年間(1113-1118)に天台座主・東陽坊忠尋により開かれたという。近代、1868年に廃寺になる。境内にあった三猿堂(庚申堂)は尊勝院に移された。
◆年間行事 法座(毎月4日、14日)。


*堂内の御仏、御真影などは撮影禁止。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『日本の名僧』『京都・山城寺院神社大事典』 、 、ウェブサイト「コトバンク」  


関連・周辺青蓮院    関連・周辺尊勝院     関連・周辺崇泰院     関連・周辺金蔵寺跡〔青蓮院〕     周辺    関連       

「西本願寺法主御手植」の碑

「法主御手植」のクスノキ


「東本願寺法主御手植」の碑(1929)

親鸞手植ともいう青蓮院のクスノキの大木、樹齢800年ともいう。
植髪堂 〒605-0035 京都市東山区粟田口三条坊町 
 Home    Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光