養林庵 (京都市上京区)
Yorin-an Temple
養林庵 養林庵 
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 尼寺の養林庵(ようりん-あん)は、住宅地の一角に、南面して建つ。 
 曹洞宗。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1585年、創建されたという。山城国深草村31石の朱印状を安堵される。当初は臨済宗だった。氏族、園家の女子が住持として養林庵を継ぎ、上臈(じょうろう)とした。
 開庵してほどなく、廃絶したという。以後は「亡所」とされた。
 江戸時代、寛永年間(1624-1645)、春松院寿光により再興される。幕府へは、寿光の弟・松平清昌がその母・天徳院の菩提所にするとの名分によった。以来、武家の後見を受ける。近世(安土・桃山時代-江戸時代)、宝鏡寺の末寺になり、上臈寺とされた。
 1631年、春松院寿光が亡くなる。
 1632年、2世・祖倫が入寺した。尼僧・永松院に寺領安堵の朱印状などが譲られる。
 享保年間(1716-1735)、宝鏡寺との間に後継住持の人選を巡り争論が起こる。朝廷、幕府も巻き込む。
 1788年、天明の大火で焼失した。
 1849年、9世・祖松の没後、10世・観光が再興する。以後、曹洞宗に改めたともいう。
 近代、1884年、曹洞宗に改め、宝鏡寺末寺より天寧寺末寺に変わる。
◆春松院寿光 江戸時代前期の尼僧・春松院寿光(?-1631)。詳細不明。女性。徳川家康の同母異父妹・松平家清の室・天桂院の娘。松平忠利に嫁した。夫没後、出家し、寛永年間(1624-1645)、養林庵を再興した。江戸に幕府後見の件で赴く途中、桑名で病没したという。
◆永松院
 江戸時代の尼僧・永松院(?-?)。詳細不明。女性。父・尾張佐治氏の大野城主・佐治為衡の子・佐治信方、母・信長の妹・お犬。信長の姪にあたる。北畠家臣・藤方朝成の子・半右衛門に嫁ぐ。子・勘兵衛(佐治一久)は佐治一成の養子になる。弟子・祖倫は一久の娘。
◆祖倫 江戸時代前期の尼僧・祖倫(?-1686)。詳細不明。女性。白堂祖倫。1632年、7歳で養林庵に入寺した。永松院の弟子になる。永松院は祖母になる。養林庵2世。
◆観光 江戸時代前期の尼僧・観光(?-1868)。詳細不明。女性。寂宗観光。父・北桑田郡の小出信濃守家中・宇野藤蔵。1849年、養林庵10世になり再興した。
◆上臈 「﨟(ろう)」は、僧が受戒後に安居(あんご)を行い終えることであり、﨟を積むといわれ、出家後の年数によった。「上臈(じょうろう)」は、その身分の高い僧をいう。
 比丘尼御所では、公家の娘を上臈として召した。室町時代後期、大永年間(1521-1527)に、養林庵は氏族の園家の女子が住持としてを継ぎ上臈とされた。
 安土・桃山時代、天文年間(1532-1555)に、比丘尼御所の一つ、「黒上々(くろかみがみ)」の細川管領家出身による宝鏡寺末の継孝院を上臈とし、養林庵は小上臈に変わった。
◆文化財 「養林庵文書」。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 「養林庵文書について由緒と沿革の紹介をかねて」(『相愛大学研究論集第16巻』)、『京都古社寺辞典』 、ウェブサイト「コトバンク」

 
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養林庵 〒602-0016 京都市上京区畠中町63,新町通寺之内上ル   075-451-1906   
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