要法寺 (京都市左京区) 
Yobo-ji Temple
要法寺 要法寺 
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西門




表門




清涼池救済橋と本堂



本堂


本堂、30世・日良が江戸時代、1774年筆「玄宗極地 本時上行 扶桑恵日 長照閻浮」の大扁額












開山堂
 三条通北にある要法寺(ようぼうじ)は、1万3500㎡の境内を有している。「教学の山」として知られた。「松の寺」とも呼ばれた。山号は多宝富士山という。
 日蓮本宗の大本山。本尊は十界大曼荼羅。
 日蓮宗京都16本山の一つ。 
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、1308年、日尊が法華堂(後の法華宗上行院<じょうぎょういん>)を建立しその前身になる。
 1315年、1336年、1339年、正和年間(1312-1317)とも、日尊は、皇室より寄進された六角油小路(中京区)に上行院を建立したという。(『坊目誌』)
 1339年、日目は、師・日興の遺命により上洛し、六角油小路に上行院を開創したともいう。
 室町時代、1342年、日尊は会津・実成寺の弟子・日印に上行院を授けた。また、日尊の弟子・日大は一条猪熊に別の上行院を開創したともいう。後、日大の弟子・日源は本実成寺(ほんじつじょうじ)と寺号を改めた。後に、二条堀河に移し、住本寺(じゅうほんじ)と改める。
 南北朝時代、1362年、貞和年間(1345-1350)とも、日大は、冷泉西洞院に法華堂(後の住本寺)を建てたともいう。
  1536年、比叡山衆徒による京洛法華宗21本山の焼き討ち事件、天文法華の乱により、上行院、住本寺ともに焼失する。宗徒は堺へ避難した。
  1542年、1548年とも、法華宗徒の京都への帰洛が勅許された。(『両山歴譜』)
  1550年、1548年とも、五条坊門堀川(下京区、堀川綾小路)に上行院と住本寺は統合され、要法寺が建立された。住本寺広蔵院・日辰が住職になる。以後、寺は法華宗六本山のひとつになる。
 安土・桃山時代、1583年、天正年間(1573-1592)とも、豊臣秀吉の都市改造に伴い、その命により京極二条東(中京区)に移転になる。
  江戸時代、1607年、武将・直江兼続は「文選」31冊を要法寺の活字で印刷させた。
 1633年、末寺61か寺になる
 1708年、宝永の大火で焼失した。その後、現在地(左京区)に移転している。
 1718年、境内に多くの松が植えられ、以来、「松の寺」と呼ばれた。
 1759年、宝暦の大火で焼失する。
 1783年、岐阜の要法寺末寺院が仏像を撤廃する。
 1795年、本圀寺末の寺院より、幕府に「新義異流」として告発された「寛政法難」が起こる。
 1807年、京法華宗15本山と仏像安置を条件として合意に至る。
 近代、 1876年、富士門流の統一教団、日蓮宗興門派の結成に参加する。
 1899年、大石寺を除く日蓮宗興門派は日蓮本門宗(本門宗)と改称された。
 1915年、仏像を撤廃している。
 1941年、本門宗は一致派の日蓮宗、勝劣派の顕本法華宗とともに三派合同を行い、日蓮宗を結成した。
 現代、1950年、1948年とも、日蓮宗から独立し、日蓮本宗を結成した。
◆日尊 鎌倉時代の日蓮宗の僧・日尊(にちぞん、1265-1345)。奥州に生まれ。幼少で天台僧として出家する。1283年、奥州三迫六町目の地頭所で日目(にちもく)に師事する。1284年、身延の日蓮本弟子6人のひとり日興に師事する。1290年、大石寺塔頭・久成坊を開く。1299年、重須談所(北山本門寺)で日興より破門され、後に赦されたという。
 諸国を遍歴、36か寺を建立したという。京都に法華堂(後の要法寺)を開く。弟子に日尹、日大がある。
◆日目 鎌倉時代の日蓮宗の僧・日目(にちもく、1260-1333)。伊豆生まれ。1272年、走湯山円蔵坊に入る。1276年、日興を師として得度、身延山の日蓮の弟子になり常随給仕を尽くした。1287年、陸前一ノ迫柳ノ目に法華堂(妙教寺)を創す。1290年、大石寺塔中蓮蔵坊を創した。1302年、駿河安居山に東漸寺を開く。1330年、日興より「跡条条事」を与えられ本門弘通の大導師(一閻浮提の座主)と定められた。1333年、京都へ申状提出(天奏)に向かう途中、美濃垂井で亡くなる。日興の高弟、本六の一人。新田卿阿闍梨。
◆日印 鎌倉時代の日蓮宗の僧・日印(にちいん、1264-1329)。越後国生まれ。1318年-1319年、鎌倉幕府執権高時は、日蓮弟子・日朗に諸宗との問答対決の命を下した。日印は高齢の日朗に代わり諸宗派を論破した。(鎌倉殿中問答)。以来、幕府は題目宗の布教を許可したという。1271年、日印は佐渡ヶ島へ流される途上の日蓮に越後国寺泊で会い、摩訶一丸の名を授けられた。日蓮の弟子で六老僧の一人、日朗に師事した。
◆日大 南北朝時代の日蓮宗の僧・日大(生没年不詳)。詳細不明。日尊の弟子。1362年、貞和年間(1345-1350)とも、冷泉西洞院に法華堂(後の住本寺)を建てる。
◆日源 鎌倉時代の日蓮宗の僧・日源(にちげん、?-1315)。中老僧の一人。当初は駿河の天台宗、実相寺の学頭を務め、智海法印(播磨法印)と称した。1278年、日蓮が実相寺に入寺し、摩訶止観の講義を聞いて日蓮の弟子になり日源と改名した。後、官命により、実相寺5世になり、日蓮宗に改宗し開山となる。各地に法華寺、感応寺、法明寺、東光寺を開く。
◆日辰 室町時代の日蓮宗の僧・日辰(にっしん、1508-1577)。京都生まれ。京都・住本寺の日法、日在に師事。1536年、天文法華一揆で焼失した住本寺と上行院を合わせ要法寺として再興した。1555年、13世。
◆日性  室町時代-江戸時代の日蓮宗の僧・日性(1554-1614)。京都に生まれた。学僧として、1583年から、建仁寺の経蔵の大蔵経を「大蔵纂要」などにまとめた。晩年、要法寺15世になり、内本智院に住し、要法寺版という古活字本の刊行を行う。
◆直江兼続 安土・桃山時代-江戸時代の武将・直江兼続(なおえ かねつぐ、1560-1619)。越後上田庄に生まれた。父は樋口兼豊ともいう。上杉景勝の近習となる。1581年、重臣・直江信綱没後、その未亡人おせんと婚姻し直江家を継ぐ。1578年、御館の乱で父と共に景勝方に就く。1581年、越後与板城主、1583年、山城守。信濃川に支流の中ノ口川を開削する。1587年、新発田城攻略、1589年、佐渡平定に尽力する。1590年、小田原征伐、1592年、文禄の役では景勝と共に参戦する。家康との対立を収める。1614年、1615年、大坂の陣に参戦した。
 1592年、文禄の役では肥前名護屋に赴き滞在した。その際に、漢方医学の本「済世救方」300巻を手分けして筆写させた。1607年、「文選」31冊を要法寺の活字で印刷させている。
◆仏像 本堂に本尊、日興書写の法華首題、日蓮像を安置する。
 釈迦堂に本尊の釈迦仏を安置する。
◆建築 「本堂」は、江戸時代、1774年に建立された。総ヒノキ造、板曼荼羅、祖師象を祀る。
 「表門」は、江戸時代、1724年に伏見城より移築された。
 「西門」は、江戸時代、1857年に伏見城より移築された。
 「開山堂」は、江戸時代、1830年に再建された。重層入母屋造。等身大の日尊を祀る。
 「薬医門」は、江戸時代、1779年に建立された。
 「鐘楼堂」は、江戸時代、1737年に建立になる。
 ほかに、「釈迦堂」、「経蔵」などがある。
◆文化財 「金銅蓮華唐草文透彫経箱」(重文)は、「天文二十四年(1555年)」の銘がある。京都国立博物館寄託。
 「紫宸殿曼荼羅」「称徳符法曼荼羅紺紙金泥法華経」8巻など。
 慶長年間(1596-1615)、15世・日性の時、銅活字による「要法寺版(板)」の書籍出版が行われた。「法華経伝記」「天台四教儀集註」などが出版された。印刷史上注目される。
◆塔頭 妙種院、真如院、本地院、本行院、 顕寿院、 實成院、法性院、信行院。
◆不思議 「豊公の手水鉢」は、豊臣秀吉ゆかりとされ庭園にあるという。/「景清の牢の石柵石」は、庭にある石という。平家の平景清(悪七兵衛)は、源氏に捕えられ音羽川付近の牢に投じられた。景清は牢を破ったため鬼界ヶ島に流された。石は牢の谷の石柵だったという。/「本堂の隅柱に釘」が立つ。
◆年中行事 宗祖日蓮聖人誕生会(2月16日)、立教開宗会(4月28日)、御開山会(5月8日)、宗祖御会式(10月13日)など。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都大事典』『洛中洛外』『京都の寺社505を歩く 上』『京都隠れた史跡100選』『京の怪談と七不思議』


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開山堂

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