山本宣治(山宣)の墓・別宅 (宇治市) Grave of Yamamoto,Senji |
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山本宣治(山宣)の墓・別宅 | 山本宣治(山宣)の墓・別宅 | |
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![]() 善法墓地にある山本宣治の墓 ![]() 墓碑背面 ![]() 宣治が暮らした家は、料理旅館「花やしき浮舟園」になっている。 ![]() 「花やしき浮舟園」 ![]() 宣治が暮らしたという家も残されている。静養した時期にはここで植物を育てていた。 ![]() 土蔵を改造した山宣資料室 ![]() 山本宣治、少年期の夢は、花を作り世の中を明るくしていくことだったという。 ![]() 宣治のデスマスク ![]() 訳書『戦争進化之生物学的批判』、著書『戦争の生物学』、『産児調節論』などが展示されていた。 ![]() 書斎 |
近代の性科学者・代議士・山本宣治(やまもと-せんじ)は、山宣(やません)と呼ばれた。宇治市の善法(ぜんぽう)寺の高台の墓地内に葬られている。 宣治が過ごした別宅は、料理旅館「花やしき浮舟園」として残されている。 ◆歴史年表 近代、1901年以前、山本宣治の両親は、宣治の養育のために宇治川畔の別荘(後の「花やしき浮舟園」)に移る。宣治は花づくりをして静養する。 1927年、8月、父・亀松が死去する。宣治が「花やしき浮舟園」の主人になる。 1929年、3月5日夜、宣治は東京の宿舎で、右翼団体の刺客により暗殺された。3月9日、宣治の遺骨が京都駅に到着した。墓碑は、墓ではなく記念碑として建立手続きをした。数年間は許可が下りず、碑文はセメントで塗り潰すように命じられた。 現代、1945年、12月、戦後初の追悼墓前祭で、墓石のセメントを鑿(のみ)で剥がして墓石を復元した。 2021年、7-10月、資料館が改修された。 ◆山本 宣治 近代の生物学者・政治家・山本 宣治(やまもと-せんじ、1889-1929)。男性。山宣(やません)。宣治の名は宣教師の「宣」に因む。京都市新京極の生まれ。父・山本亀松(かめまつ)、母・多年(たね)の一人子。生家はアメリカからの輸入雑貨店「わんぷらいすしょっぷ」を営んでいた。クリスチャンの両親のもとで洗礼を受ける。京都市内の生祥(せいしょう)小学校時に宇治に移る。1899年、宇治・莬道(とどう)小学校を卒業し、京都市立第二高等小学校に入学した。1901年、神戸中学に進学した。この頃、キリスト教への信仰を深め、内村鑑三の著作を耽読した。1902年、病気のために中学を中退する。宇治の「花やしき」に戻り、静養しながら植物を育てた。1904年、種苗店の東京興農園で住み込みの園芸修行を行う。失意し、3カ月で帰京した。独学で社会主義、ダーウィンなどの文献に触れる。同志社総長・牧野虎次を慕う。1906年、留学準備として早稲田の大隈重信邸に住み込み、園芸修行を行う。1907年、園芸研究のためカナダ・バンクーバーに渡り、ハイ・スクールに入学する。人道主義・ダーウィンの進化論などを学ぶ。皿洗い、給仕、園丁、新聞配達、漁師など30種ほどの職に従事した。ユニテリアン派クリスチャンになる。1911年、父の病により帰国する。1912年-1914年、同志社普通部4年に在学した。1914年、第三高等学校第二部乙類に進学する。丸上千代と結婚し、子は男子3人女子2人あった。1917年、第三高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部動物学科に進学する。1920年、東京帝大を卒業した。卒論は「イモリの精子発生」だった。京都帝国大学大学院(動物学教室)に入学し、染色体の研究を行う。生物学者として同志社大学予科講師になる。「人生生物学」の講義は日本初の性科学講義になった。1921年、京都帝大医学部講師として大津臨湖実験所に通う。性科学読書会を開く。1922年、来日中の産児制限指導者・М・サンガーと出会い、雑誌『産児調節評論』を創刊した。講演のため来日中のアインシュタンに面会を求め、翻訳中の『戦争の生物学』序文への寄稿を依頼した。1923年、京都帝大理学部講師になる。労働運動家・三田村四郎・九津見房子夫妻と「大阪産児制限研究会」を設立し、各地で公演を行う。1924年、西尾末広らが設立した大阪労働学校の講師、京都労働学校長に就任する。京都大学を失職する。1926年、京都学連(学生社会科学連合会)事件に関与し、同志社を辞任させられる。労働運動・農民運動にも関わり、南山城小作争議を指導した。1927年、衆議院京都5区補欠選挙に労農党から立候補し、落選した。父・亀松が死去し「花やしき浮舟園」の主人になる。労働農民党京都府連合会委員長に就任した。1928年、2月、第1回普通選挙で、京都府第2区に無産政党の労働農民党公認で立候補し初当選する。京都帝大教授・河上肇も選挙応援した。日本初の無産政党代議士になる。その直後の弾圧3・15事件で労農党は解党になり、政治的自由獲得労農同盟に属した。この頃、言論、結社、社会運動などを取り締まる緊急勅令「治安維持法」(1925)は、最高刑が死刑に改定されようとしていた。1929年、3月5日、宣治は、反対の演説のために第56帝国議会に登院した。発言は封じられる。その夜、宿泊していた神田の旅館「光栄館」で、右翼団体・七生義団の元巡査・黒田保久二により刺殺された。著『山本宣治著作集』8巻など。40歳。 墓は善法墓地(宇治市)にある。 ◆山本 治子 近現代の歌人・山本 治子(やまもと-はるこ、1921-1994)。女性。父・山本宣治、母・千代の長女。生まれつき体に障がいがあり、4歳より家庭教師に学ぶ。美しく聡明な人だったという。歌を学ぶ。「浮舟園の姫ぎみ」と呼ばれた。不自由な体で、花やしきの賄い料理を仕切っていたという。1991年、歌集『清明の季』が「第1回紫式部市民文化賞」を受賞した。 1929年、暗殺された父を詠んでいる。「戦死・戦災者三百万人にさきがけて邪魔者山宣の抹殺ありき」。 ◆サンガー 近現代の産児制限指導者・マーガレット・ヒギンズ・サンガー(Margaret Higgins Sanger,1879-1966)。女性。アメリカ合衆国・ニューヨーク州出身。1899年、看護婦学校に入学、終了はしなかった。1902年、ウィリアム・サンガーと結婚し3児を産む。1910年頃から、世界産業労働組合(IWW)などに関わる。1912年、ニューヨークに移り、看護師として貧民街・イーストサイドに勤める。貧困、多産・中絶などに伴う母子の死亡例を見て、産児制限運動を確信する。 1913年、離婚し、1914年、産児制限運動誌『女性反逆者』を発刊する。産児制限(birth control)を造語した。1916年/1915年、ブルックリンに全米初の産児制限診療所を開く。逮捕され、感化院に収監され労役に服した。1921年-1928年、全米産児制限連盟(ABCL)を創始し会長を務めた。1922年、石油王・ジェームス・ノア・ヘンリー・スリーと再婚した。世界を遊説、来日し、婦人運動家・政治家・石本静枝(加藤シヅエ)らと産児制限の普及を訴える。官憲に弾圧される。1923年、ABCLの後援により臨床研究局を設立し、全米初の合法的な産児制限診療所になる。1927年、スイス・ジュネーブでの第1回世界人口会議を開催する。1929年、サンガー産児制限診療所が家宅捜査される。訴訟は却下になる。1930年、産児制限国際情報センターの会長になった。1936年、風俗壊乱防止法(1873)が改正され、医師による避妊指示が認められる。1953年/1952年-1959年、国際産児制限連盟が組織され初代会長になった。1955年、国際家族計画連盟を設立し会長に就任した。 82歳。 ◆阪 正臣 江戸時代後期-近代の歌人・書家・阪 正臣(ばん-まさおみ、1855-1931)。男性。姓は坂、幼名は政之介、字は従叟、号は茅田(ぼうでん)、観石、桃坪、居は樅屋(もみのや)。名古屋の生まれ。医師・国学者・権田直助、歌人・高崎正風に学ぶ。鎌倉宮、伊勢皇大神宮などに奉仕した。30歳で宮内省御歌所(おうたどころ)に入る。華族女学校教授、御歌所寄人を歴任した。上代様仮名書道の研究会「難波津(なにわづ)会」の一員になる。77歳。 女学校用習字教科書に筆をとり、優雅な書風は流行した。著『樅屋(もみのや)詠草』など。 ◆花やしき 宇治の料理旅館「花やしき」は、山本宣治の生家別宅になる。近代、1901年に、宣治は神戸中学校に入学し、病のため中退する。両親が宣治のために宇治川畔の別荘を建た。宣治は花づくりにいそしむ。その後「花やしき浮舟園」になった。1927年8月に、父・亀松が死去し、宣治は「花やしき浮舟園」の主人になる。 現在は、宣治が暮らしたという家も残されている。土蔵を改造した山宣資料室があり、書斎が再現されている。 ◆墓 山本宣治の墓は、高台の住宅地内、善法墓地(宇治市宇治善法113-3)にある。「花屋敷山本家之墓」とある。山本宣治の名では建立の許可が下りなかったためという。当初は墓ではなく記念碑であるとされた。遺族に記念碑建立の手続きをさせ、数年間にわたり許可は下りなかった。 墓碑背面には社会運動家・政治家・大山郁夫(1880-1955)の書で、「昭和四年三月五日 宣治 四拾壱歳逝 同志山本宣治最期の演説から 山宣独り孤塁を守る! だが私は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」と刻まれている。 宣治の帝国議会での演説草稿からの引用による。元になったのは全国農民組合第2回大会での演説だった。 当初、墓碑を立てることは許されず、碑文はセメントで塗り潰すという条件で許可されたという。その後も、何者かによりセメントで碑文が塗り潰されては、剥がされることが繰り返されたという。墓碑の「花屋敷山本家之墓」揮毫は、母の依頼により歌人・書家・阪正臣(ばん-まさおみ、1855-1931)による。鞍馬石、高さ2m。 ◆映画 近代、1929年3月9日、山本宣治の遺骨が京都駅に到着し、宇治駅を経て山本家まで運ばれた。その様子は16ミリカメラで撮影されていた。 3・15事件一周忌に当たり製作された記録映画「山宣渡政労農祭」は、プロキノ(日本プロレタリア映画同盟)京都支部により隠し撮りされていた。 ◆年間行事 墓前祭(山本宣治の命日に行われている)(3月5日)。 *年間行事は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『同志社山脈』、『京の思想家散歩』、『新編 同志社の思想家たち 下巻』、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都大事典』、『京都の映画80年の歩み』、『女たちの京都』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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![]() 「花やしき浮舟園」 〒611-0021 京都府宇治市宇治塔川20 ![]() |
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