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神応寺 (京都府八幡市) Jinno-ji Temple |
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神応寺 | 神応寺 |
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![]() ![]() ![]() 参道の石段には楓が植えられている。 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() ![]() 鐘楼 ![]() 豊川稲荷(荼枳尼天) ![]() 「大聖不動明王」神額、杉山谷不動 ![]() 大聖不動明王 ![]() 参道石段 ![]() 「二の丸 引面」 ![]() 「二の丸 引面」の神額 ![]() ![]() 滝不動尊(杉山谷不動尊) ![]() 二の丸明神、谷不動明王 ![]() |
神応寺(神應寺、じんのうじ)は、石清水八幡宮の鎮座する男山の谷筋を隔てた北の山、鳩ヶ峰の西にある。山号は糸杉山(絲杉山、ししんざん)という。 曹洞宗、本尊は薬師如来。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 平安時代、860年/貞観年間(859-877)、石清水八幡宮を創建した行教が一宇を建立したことに始まるという。第15代・応神天皇(201-310)の御牌所として建てられたという。当初は、四宗兼学(天台、真言、法相、律)の道場だった。(『石清水雑記』)。別当寺としたという。かつて、応神寺(應神寺)と称したという。 鎌倉時代以降?、曹洞宗峩山派になり、神応寺と改称した。寺号は、石清水八幡宮が宇佐神託に応じ遷座したことにより、開祖・行教住坊の号としたことによるという。 室町時代、足利将軍家は禅宗に改め、本尊を釈迦如来像として安置した。行教作という旧本尊・不動像は奥院(杉山不動、谷不動)に遷された。 その後、廃れる。 安土・桃山時代、文禄・慶長の役(1592-1593・1597-1598)の際に、豊臣秀吉は石清水八幡宮に参詣し、当寺に止宿した。秀吉は200石の寺領を贈る。 豊臣秀頼(在位:1598-1615)の頃、衣冠束帯の秀吉木像を安置し、当寺を擁護する。 安土・桃山時代-江戸時代、曹洞宗の弓箴善疆(きゅうしん-ぜんきょう)が再興し、中興2代になる。 慶長年間(1596-1615)、尾張の曹洞宗正眼寺の末寺になる。 江戸時代、廓翁(かくおう)の時、3代将軍・徳川綱吉(在位:1680-1709)の帰依を受ける。奥院不動尊像に帽額戸帳が奉納された。幕府により江戸、大坂、堺などでの托鉢勧化の免許を得て寺運隆盛になる。以後、徳川家が代々帰依した。 道之の時、本尊は薬師如来像に改める。 近代、1873年、継弓社(石清水八幡宮の旧開山堂)が廃され、行教律師坐像が当寺に遷される。 ◆行教 平安時代の僧・行教(ぎょうきょう、?-?)。紀魚弼(きの-うおすけ)の子。東寺長者・益信(やくしん)の兄ともいう。行表に師事した。大和・大安寺(だいあんじ)で三論、密教をまなぶ。859年、第56代・清和天皇の即位に伴い、藤原良房の命により、豊前・宇佐八幡宮に参籠した。平安京の近くに遷座する託宣を受け、山城国男山に社殿を建てた。860年、八幡神を勧請し、石清水八幡宮とした。861年、宇佐で『大般若経』などの講読を行い、石清水八幡宮に15僧を置いた。863年、伝灯大法師位。 弟子で甥の安宗は、宇佐で一切経を書写し、875年、行教の没後に完成させた。 ◆弓箴善疆 安土・桃山時代-江戸時代の僧・弓箴善疆(きゅうしん-ぜんきょう、 ?-?)。詳細不明。曹洞宗。豊臣秀吉と同郷という。1606年、高台寺を開山する。秀吉の文禄・慶長の役(1592-1598)で肥前名護屋陣所に随従したという。 ◆廓翁 江戸時代の僧・廓翁(かくおう、?-1708)。詳細不明。 ◆仏像・木像 ◈奥の院に「南無大聖不動明王」、脇仏に「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」(八幡市指定文化財)、「制多迦童子(せいたかどうし)」(八幡市指定文化財)を安置する。平安時代作「十一面観世音菩薩」を安置する。 ◈本堂に木像「行教律師坐像」(重文)(77.6㎝)が安置されている。平安時代作になる。彩色僧形坐像であり、剃髪、法衣、結跏趺坐し、右手(後補)は胸高に掲げ印相を結び、左手(後補)に巻経(後補)を持つ。行教の没後間もなく製作されたといわれ、9世紀(801-900)の衣文、渦巻文様が見られる。近代以前は、神仏習合期の石清水八幡宮の開山堂に安置されていた。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈後、1870年に石清水八幡宮の開山堂は神殿「継弓社」に変わる。像の頭には行教の復飾儀式として烏帽子が釘付けされ、僧形ではないとして破却を免れたという。その後、1873年に継弓社が廃され、宮司・梅渓通善が当寺に遷した。木心部は前面右方寄りにあり、木裏を用いている。内刳りはない。両肩を衣が覆う。ヒノキ材、一木造、彫眼。 ◈「聖観世音菩薩像」、「厩戸王(聖徳太子)像」を安置する。 ◈「豊臣秀吉坐像」(42.1㎝)は江戸時代作、束帯木像、寄木造。 ◈ほかに中興の伝「弓箴善彊像坐像」、「普賢菩薩騎象像」。 ◆建築 書院は伏見城の御殿遺構という。 ◆文化財 「鰐口(わにぐち)」(京都府有形文化財)には、鎌倉時代、「元弘二年(1332年)」の銘がある。 掛軸「八幡大菩薩篝火御影(かがりびみえい)」は、石清水八幡宮の模写とみられる。鎌倉時代作であり、1281年のモンゴルの来襲(元寇)に際して、亀山上皇、西大寺・比叡尊が敵国折伏祈願に掲げた可能性もある。その後、江戸時代、1705年に模写された。中央上部に剣をかざした僧形八幡神が描かれている。篝火がたかれ、8神は鎧、兜をまとう。 江戸時代の狩野山雪(1590-1651)筆の杉戸絵「竹虎図」6面(八幡市指定文化財)。「紙本墨画山水図」4面、「紙本墨画瀑布図」。 「徳川五代将軍綱吉公拝領大掛絡(おおがら)」は、綱吉より拝領した衣装を仕立て直した。 「神應寺書状」。 ◆五輪塔 神応寺の山門の南(左手)にある五輪塔(航海記念塔)(重文)は、日本最大のもので高さは6mある。平安時代、承安年間(1171-1175)の建立という、また鎌倉時代中期、後期ともいう。摂津の豪商が石清水八幡宮に祈願し、海難を免れたことにより寄進されたという。かつて、極楽寺の境内に置かれていた。 ◆墓 開祖・行教の墓がある。 江戸時代の大坂の豪商・淀屋辰五郎(?-1717)、江戸城大奥総取締・右衛門佐局(えもんのすけ-の-つぼね/うえもんのすけ-の-つぼね、1650-1706)、淀城主・永井家、江戸時代の絵師・長沢芦雪(1754-1799) 山上に近代の航空機研究者・二宮忠八(1866-1936)の墓がある。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都府の地名』、『拝観の手引』、『京都府の歴史散歩 下』、『古佛』、『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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![]() 手水舎 |
![]() 小不動尊 |
![]() 小不動尊 |
![]() 小不動尊 |
![]() 厄除延命地蔵尊 |
![]() 厄除延命地蔵尊 |
![]() 厄除延命地蔵尊 |
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![]() 地蔵尊 |
![]() 地蔵尊 |
![]() 五輪塔 |
![]() 三十三度紀念碑 |
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![]() 豊川陀枳尼尊天 |
![]() 豊川陀枳尼尊天 |
![]() 大聖不動明王 |
![]() 大聖不動明王 |
![]() 大聖不動明王 |
![]() 大聖不動明王 |
![]() 十一面観世音菩薩 |
![]() 十一面観世音菩薩 |
![]() 十一面観世音菩薩のほか、弁財天、弘法大師、波切不動明王、水子地蔵菩薩も安置されている。 |
![]() 十一面観世音菩薩 |
![]() 【参照】境内の頭上に架けられた京阪電鉄男山ケーブルの男山橋梁、1955年架橋 |
![]() 【参照】男山橋梁のプレート |
![]() 神応寺の山門の南(左手)にある五輪塔(航海記念塔)(重文) |
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