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金札宮 (京都市伏見区) Kinsatsu-gu Shrine |
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金札宮 | 金札宮 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() ![]() 公岡稲荷大明神 ![]() 公岡稲荷大明神 ![]() 公岡稲荷大明神 ![]() 公岡稲荷大明神 ![]() 白滝、白姫大明神、常盤稲荷社 ![]() 恵比須社 ![]() 金刀比羅社 ![]() 橋吉稲荷社 ![]() ![]() ![]() ご神木のクロガネモチ(市指定天然記念物) ![]() クロガネモチ ![]() 【参照】おそらく白菊石、御香宮境内。 |
金札宮(きんさつ-ぐう)は、伏見で最も古い神社のひとつに数えられる。「白菊明神」とも呼ばれた。 旧久米(くめ)村の産土神として崇敬されてきた。観阿弥作の謡曲「金札」の題材になっている。 祭神は、天太玉命(あめのふとだまのみこと、白菊翁・白菊大明神)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祀る。旧村社。 火難除け、商売繁盛、福の神の信仰もある。御朱印が授けられる。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 奈良時代、750年、女帝の第46代・孝謙天皇が、「金札白菊大明神」の宸翰(しんかん、天皇自筆の文書)を贈り、里人が社殿を造営したことに始まるという。(社伝) また、平安時代、貞観年間(859-876)、第56代・清和天皇の頃(在位: 858-876)とも、官人・橘良基が阿波国より天太玉命を勧請したともいう。 鎌倉時代、1299年、第93代・後伏見天皇は荘園を寄進し栄えた。 第96代・後醍醐天皇の時(在位:1318-1339)、代々の社司・金松弥三郎(弥三郎宗広、北条継貞従族、久米村地侍)が、本願寺の存覚に帰依する。性空坊了源と号し、境内に神宮寺の久米寺を建立した。 また、1322年、当宮の祠官・金松氏は、金札宮境内に久米寺を再興し、粂(くめ)神宮寺と呼ばれたという。 南北朝時代、1355年、寺名を西方寺と改める。 中世(鎌倉時代-室町時代)、隆盛する。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。 第104代・後柏原天皇の時(在位:1501-1526)、社殿の修繕の勅があり社勢を取り戻したという。 安土・桃山時代、1592年、文禄年間(1593-1596)とも、豊臣秀吉による伏見城築城の際に、久米村も寺も城外の久米町(現在地の北西)に移されたという。(『拾遺都名所図会』)。また、御駕篭町(現在地の西方250m)に移されたともいう。金札宮は守護神、城鎮守神として伏見城内、鬼門の伏見山艮(うしとら)の方角に移されたという。 1600年、関ヶ原の戦いで伏見城が落城後、現在地の北250mに移されたともいう。 江戸時代、徳川家康の伏見城時代(1603-1623?)、1604年とも、喜運(きうん)による喜運寺(鷹匠町、現在地の北隣)創建に伴い、境内に鎮守社とし金札宮を再興したという。同年、尾張藩邸建設予定地に当たり、金札宮は風呂屋町(現在地の南西)に移されたともいう。 慶長年間(1596-1615)、1623年とも、衰微し現在地(鷹匠町)に移されたともいう。(『拾遺 都名所図会』) 1780年、現在地(鷹匠町)に当宮が記されている。(『拾遺都名所図会』) 1846年、伏見奉行・内藤豊後守の許可により社殿造営が始まったという。 1848年、現在の社殿が完成した。 近代、1868年以降、神仏分離令後の廃仏毀釈により、金札宮は喜運寺より独立した。 現代、2010年、恵比須・寶惠駕籠巡行祭が55年ぶりに復活した。 ◆橘良基 平安時代前期の官人・橘良基(たちばな-の-よしとも、825-887)。男性。父・摂津守・橘安吉雄(あきお)。864年、伊予権介(いよのごんのすけ)になる。大宰大弐の正躬王から格下の少監就任を拒否し、第55代・文徳天皇の怒りを買い解官された。第56代・清和天皇により再び官に登用される。869年、常陸介を経て、後に越前守、丹波守、信濃守になる。63歳。 従四位上。農耕を勧め、租税や課役を軽減した。信濃の農民で殺人犯・坂名井子縄麻呂を放免し、京都に召還される。自らは蓄財せず良吏といわれた。公卿・歌人・在原行平(818-893)は絹布を贈ってその葬儀を助けたという。 ◆伝承 創建にまつわる伝承がある。 奈良時代、750年、長さ2丈(6m)の流れ星が現れる異変が起きたという。第46代・第48代・孝謙天皇も深く憂慮した。 伏見久米の里に、白菊を植えて楽しむ一人の翁がいた。所業が奇妙だとして、里人が名を聞いた。「吾は、天太玉命(ふとだまのみこと)で、天下の豊秋を喜び、年久しく秋ごとに白菊を賞でて来たり、もし干天(かんてん、日照り)で稲が枯れる時には白菊の露を潅(そそ)がむ」という。 翁は手に持った白菊を打ち振う。忽ち清水が湧き、水は尽きない。続けて「人々一度この白菊に霑(うろお)えば、たちどころに福運来て、家運は長く隆盛し、子孫繁栄、災禍から除かれるであろう」という。 里人は驚き、天皇に奏上すると天皇も喜び、「金札白菊大明神」の宸翰(しんかん、天皇自筆の文書)を里人に与えた。里人は力を合わせて社殿を造営したという。(『山城名跡巡行志』巻5) また、伏見(俯見、高天原より臥して見た日本とも)に、宮居(社殿)の建設中に、突然に金の札が天から降った。札には、「永く伏見に住んで国土を守らん」という誓いが記されていた。人々が集まると空から声があり、「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命なり、我を拝まんとすれば、なお瑞垣(みずがき、玉垣)を作るべし」と聞こえたという。 天太玉命とは、平安遷都後の京都の町を祓い清める意味を持った神だったという。 白菊の翁が姿を変えたという白菊石は、かつて境内にあり、いまは御香宮神社(伏見区)にあるという。 ◆能「金札」 能「金札(きんさつ)」に当宮の話がある。室町時代の猿楽師・世阿弥(1363?-1443?)の遺著『五音』中、「伏見、亡父曲付」にあり、南北朝時代-室町時代の猿楽師・観阿弥(1333-1384)作の古い脇能・五番目物になる。 平安時代前期、794年、平安京遷都後、第50代・桓武天皇は、伏見に神社建立のために勅使を遣わす。神のお告げを待つと、伊勢の国阿漕ヶ浦からの老翁がおり、造営にちなむ木尽しの歌を謡う。天から金札が降り、札には、伏見に住すると誓う言葉が書かれていた。老翁は、伏見とは日本のことと教えて消える。 天に声があり、「我は伊勢大神宮使いの天津太玉神(あまつふとだまのしん)である」という。里の男が現れ、本社と並べて金札の宮を造れば、天下泰平の御守があると告げる。天津太玉神も現れ、悪魔を祓い御代を祝福し舞う。金札とは、君を守り、国を治める印であり、その札を宮に納めて姿を消す。 ◆文化財 剣鉾は同一のものが2本ある。身銘は、江戸時代後期、1794年であり、身65.1㎝、茎13.4㎝、全長78.5㎝になる。 ◆名水 現在の境内の西方250m、御駕篭町(おかご-ちょう)の旧社地に、近年まで「白菊井」と呼ばれる名水が涌ていた。この地は、旧伏見城の外濠(疏水)にあたり、その南付近だったという。井水は、その後埋没した。 社の創建にまつわる久米の里、白菊の翁(天太玉命、白菊翁・白菊大明神)の伝承に因んでいる。老翁(天太玉命)は、日照りの際に、育てていた白菊を振ると清水が湧出したという。(『山城名跡巡行志』巻5) ◆クロガネモチ 境内のご神木のクロガネモチ(京都市指定天然記念物)は、樹齢1000-1200年ともいわれる。『山城名跡巡行志』巻5(1754)にも記されている。モチノキ科モチノキ属の常緑高木、樹高10.6m、胸高周囲2.19m、雌木で秋から冬に赤い実をつける。雄木もある。 ◆年間行事 初詣(末社・恵比須神の御朱印授与。)(1月1日-3日)、恵比須宝恵駕籠巡行(2010年に55年ぶりに復活した。かつて中書島の花街の芸妓を寶惠駕籠に乗せて界隈を巡行していたという。末社・恵比須神の御朱印授与。)(1月9日-10日)、追儺式・節分会(2月3日)、春季例大祭(5月15-16日)、お火焚祭(11月23日)。 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都大事典』、『京都の寺社505を歩く 下』、『稲荷信仰と宗教民俗』、『剣鉾まつり』、『京都 神社と寺院の森』、『京都の隠れた御朱印ブック』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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