積翠園 (京都市東山区) 
Shakusuien Garden
積翠園   積翠園
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平安時代末の作庭当時を残しているといわれる景色。


大池の大島


小島


小池と石橋



小池の滝口組
 妙法院境内の北に、平安時代末期の数少ない庭園遺構ともいわれる積翠園(しゃくすいえん)がある。
◆歴史年表 平安時代末期、現在地に、武将・公卿の平重盛(1138-1179)の別邸「小松殿」があったともいう。
 安土・桃山時代、1595年頃、豊臣秀吉による大仏殿(方広寺)建立に伴い、妙法院が「大仏経堂」として現在地に移された。その際に、境内に庭園が造られたという。
 江戸時代、元禄期(1688-1703)、庭園は改修されたという。
 1665年、妙法院の堯恕(ぎょうじょ)の日記に「積翠」の名が記されている。当時は「積翠亭」「積翠軒」と呼ばれた。
 現代、1954年、積翠園は妙法院より専売公社が買収し、京都専売病院が管理した。歴史学者、造園関係者の要望により、池泉、築地塀が保存される。
 2005年、東山武田病院の所有になる。
 2011年、12月、東山武田病院は閉鎖された。
 2016年、10月、フォーシーズンズホテル京都の開業に伴い、数寄屋造の茶室より庭園を望む形で庭園は存続された。
◆平重盛 平安時代末期の武士・平重盛(たいら の もりしげ、1138-1179)。平清盛の嫡男。六波羅小松第に居を構え、「小松殿」「小松内府(内大臣)」、また、邸宅に48の灯籠を立て、灯籠大臣とも呼ばれた。保元・平治の乱(1156、1159)で戦功をなし出世し、文武両道、温厚な人柄で、清盛の後継者とされた。父・清盛と対立した第77代・後白河法皇とも親しく、1176年、後白川法皇らによる平家追討の鹿ヶ谷(ししがたに)事件後、清盛が後白河法皇を幽閉しようとしたことに対し、重盛が「君に忠ならんとすれば孝ならず、親に孝ならんとすれば忠ならず」と嘆き、父の処遇を諌めたという。
◆庭園 池泉回遊式庭園の作庭者、作庭年代は不詳。約10000㎡の敷地に、3000㎡の池が広がる。
 作庭期は平安時代末期ともいわれ、『平家物語』(長門本)の六波羅の項に、平重盛の「小松内府(内大臣)の園地」とあり、小松内府庭園遺構ともいわれている。岸辺の出入り、護岸石、一つの岩で表す岩島など、古い作庭の跡が残るという。庭園の東には「小松谷」の地名も残る。ただ、異説もある。
 また、江戸時代、妙法院住職・堯恕法親王の日記中、1665年条「積翠池に遊ぶ」に記されている。庭園では舟遊び、花見、月見、雪見、茶会、宴などが行われていたという。江戸時代、元禄年間(1688-1704)初め、堯尭の頃に移され、改修されたという。
 池には「夜泊石(やはくせき/よどまりいし)」が置かれており、古い庭園の様式を残すという。大島近く、池中に置かれた5つの石は、港に船が碇泊している様子、また、宝や不老不死の妙薬を積んだ出船、入船の様を表しているともいう。この付近に小松邸があったともいう。京都ではほかに西芳寺(苔寺)、鹿苑寺(金閣寺)庭園にも見られる。ただ、「夜泊石」の名称は、江戸時代以降に使われた。
 庭園は、東西に細長い池を中心とし、東にかすかに東山を望む。池は東西に大小2つあり、東よりの位置で石橋で仕切られている。東の小池は、一段高く造られているとされ、東端には大きな滝口組が見られる。西の大池には、中島のうち、東の大島は仙人の住むという蓬莱山を表し、築山には石塔が立てられている。
 池の東端と西端の部分は、専売病院の建設時に改修された。ただ、東の石橋部分、中央付近は、以前の様式が残されているという。
 植栽の樹木・草花の種類は多く、巨木のクスノキ、アラカシ、シイ、モチノキ、アカマツ、クロマツ、スギ、ヒノキ、シノブヒバ、ヤナギ、イチョウ、ウメ、サクラ、ハナミズキ、ヤマモモ、キンモクセイ、ツツジ、サツキ、サルスベリ、モミジ、ハゼノキ、アジサイ、カキツバタ、アヤメなどが植えられている。 
◆花暦 春の桜、杜若、菖蒲、秋の紅葉。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『庭を読み解く』『京都秘蔵の庭』



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積翠亭

妙法院門跡第50世・良順筆

大島、九輪の塔

大島の縁に沿う夜泊石

クスの大木

【参照】庭園の南に隣接している妙法院門跡

【参照】
 積翠園 〒605-0932 京都市東山区妙法院前側町,東大路通渋谷下る  フォーシーズンズホテル京都内  
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