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海住山寺 (京都府木津川市) Kaijusen-ji Temple |
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海住山寺 | 海住山寺 |
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![]() ![]() ![]() 解脱上人御廟 ![]() 室町時代の町石 ![]() 山門 ![]() ![]() 修行大師像 ![]() 狛犬 ![]() 本堂 ![]() 本堂扁額 ![]() 本堂、なで仏のびんずる(賓頭盧) ![]() 本堂 ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 文殊堂 ![]() 文殊堂 ![]() 五重塔 ![]() 五重塔 ![]() 鐘楼 ![]() ![]() ![]() 右から鎮守社、天満宮、春日大明神、稲荷大明神 ![]() ぼけ止め地蔵 ![]() もち上げ大師 持ち上げて願をかける。 ![]() やる気地蔵 ![]() ![]() 輪廻塔 ![]() 水子地蔵 ![]() 苦ぬき観音、苦ぬき地蔵 ![]() 願いを叶える茄子の腰掛 ![]() 岩風呂、鎌倉時代 ![]() ![]() 坊舎 ![]() ![]() 三上山山上よりの眺望 ![]() 納骨堂 ![]() 隆範大僧正頌徳碑 ![]() 鳥獣供養塔 ![]() ![]() 参道途中からの景色。田園地帯に木津川が流れている。手前は茶畑。 ![]() 【参照】木津川 |
海住山寺(かいじゅうせん-じ)は、木津川市加茂、瓶原(みかのはら)の三上山(さんじょう-さん、海住山、473.3m)中腹にある。山号は補陀落山(ほだらく-さん/ふだらく-せん)という。 真言宗智山派、本尊は十一面観音菩薩。 仏塔古寺十八尊第3番札所。京都南山城古寺の会。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 奈良時代、735年、第45代・聖武天皇の勅願により、東大寺開山・良弁(ろうべん)僧正が開創したという。地面より湧出したという十一面観音菩薩を本尊とし、当初は「藤尾山観音寺(かんのん-じ)」と呼ばれた。(「海住山寺縁起絵巻」)。「十一面観音寺」を前身にするともいう。また、盧舎那仏像(東大寺大仏)造立(745-752)の無事祈念のために建立されたともいう。ただ、聖武天皇の大仏造立の意志は、740年以降という。河内国・智識寺の廬舎那仏を拝して以来という。また、当初は紫香楽・甲賀寺だったという。 773年、聖武天皇の勅願により、良弁を開基とし、左大臣・藤原永手が再興したともいう。(「興福寺官務牒疏」) 平安時代、1137年、焼失している。その後、衰退する。(『海住山寺縁起』) 鎌倉時代、1208年、笠置寺(かさぎ-でら)の貞慶(ていけい/じょうけい)が移りこの地に再興した。観音の補陀落浄土への往生を望み、山号寺号を「補陀落山海住山寺」に改めた。以後、法相宗に属し、近世(安土・桃山時代-江戸時代)まで奈良・法相宗大本山の興福寺支配下にあった。 1214年、五重塔が建立された。良弁の1周忌に弟子・慈心房覚心(藤原長房)が造立したという。五重塔に仏舎利を納めたという。(『海住山寺縁起絵巻』) 室町時代、1457年、本堂が修補される。(「海阜遺編」・『海住山寺旧記』) 1459年、釈迦堂と五重塔の修理が着手される。(「奉施入海住山寺釈迦堂修理方并学習方興隆方諸種子米事」) 1463年、五重塔の屋根の葺き替えが終わる。(「鳥衾瓦篦書」) 安土・桃山時代、1582年/天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉による検地以後、寺領地を失い衰微する。 江戸時代、1662年、旧5月、大地震があり塔婆傾き、水煙破損する。(『海住山寺古書』)。本堂が修補されたという。(「海阜遺編」・『海住山寺旧記』) 近代以降、興福寺末寺から独立し、真言宗に改宗した。 1868年、山津波で旧本堂が倒壊した。 1884年、現在の本堂が再建された。 現代、2018年、6月、大阪府北部地震で五輪塔相輪の一部が破損・落下した。 ◆良弁 奈良時代の僧・良弁(ろうべん、689-774)。男性。朗弁、通称は金鐘(こんしゅ)行者。相模国(神奈川県)・漆部氏、近江国(滋賀県)・百済氏ともいう。養育された義淵に法相、華厳宗を学んだ。728年、東大寺の前身・金鐘山寺(きんしょうせんじ)に智行僧として選ばれる。735年、藤尾山観音寺の創建、740年、新羅に留学した学僧・審祥(しんしょう)を金鐘寺に招き華厳教学を研究した。751年/752年、少僧都、初代東大寺別当に就いた。来日した鑑真を東大寺で迎える。聖武天皇の看病禅師、その功により756年、大僧都。760年、僧尼位 (三色十三階制)の整備を行う。別当を勇退後、761年、近江・石山寺の造立に尽力し、764年、僧正。華厳宗の宗祖。85歳。 いくつかの伝承がある。幼少期、金色の大鷲にさらわれ、東大寺二月堂前の大木にかけられたのを義淵に救われ、養育されたという。 ◆貞慶 平安時代後期-鎌倉時代前期の法相宗の僧・貞慶(じょうけい、1155-1213)。男性。解脱房(げだつぼう)貞慶。父・貞憲、通憲(信西)の孫。8 歳で南都へ行き、11歳で剃髪した。醍醐寺・実運より虚空蔵菩薩求聞持法を受法する。以後、各経典の研学、講師、論義を通じて学僧として活躍した。1182年、大般若経600巻の書写を完成させる。1205年、『興福寺奏状』を起草し、浄土宗開祖・法然の専修念仏停止を求めた。1208年、海住山寺を中興する。最晩年、54歳で海住山寺に移り、この地で没した。59歳。 笠置寺隆盛に尽力した。 ◆藤原 長房 鎌倉時代前期-中期の公卿・藤原 長房(ふじわら-の-ながふさ、1170-1243)。男性。法名は覚心。父・参議光長、母・参議藤原俊経の娘。1191年、蔵人、1194年、右少弁、1200年、蔵人頭、1204年、参議。1205年、後鳥羽上皇(第82代)皇女・煕子内親王の乳父となり、焼亡した院御所二条殿跡を下賜された。九条兼実・良経、兼実の娘・宜秋門院任子(後鳥羽中宮)に仕えた。1210年、貞慶の徳を慕い出家した。奈良に移り、貞慶の門人となる。慈心上人、海住山民部卿入道と号した。 73歳。 1214年、海住山寺の五重塔を建立している。 ◆仏像・木像 平安時代の「十一面観音菩薩立像」(重文)は2体ある。 ◈ 本堂、厨子内安置の秘仏である本尊「十一面観音菩薩立像」(重文)(167.7/167.9㎝)は、平安時代、10世紀作とみられる。「厄除け観音」といわれている。 宝髷から蓮華座まで一木から彫り出されている。垂らした右手で印を結び、左手に蓮の蕾を挿した宝瓶を持つ。木心が像の中央にあり、内刳りはない。裳裾、台座の返花などに奈良時代の影響も残る。奈良時代の脱活乾漆像風、創立時の本尊の摸刻風ともいう。面長下膨れの顔にはノミ目は残さない。頭上に十面を載せる。髷は形を成さず、衣文は浅く、天衣の裏も荒削り、背面も省略されている。これらは、あえてノミ跡を残した霊木化現仏(れいぼくけ-げんぶつ、霊木より出現しつつある仏)を表現したとみられる。在地仏師による造仏だった可能性も指摘されている。板光背を背負う。天冠台に漆箔、ほかは彩色の黄彩檀色像、髪は群青、唇は朱、眉・髭は具墨を使う。 木造、カヤ材、一木造、彩色、素地。 ◈ もう一体の「十一面観音菩薩立像」(45.5㎝)(重文)は、平安時代作で、本尊よりやや古いとみられている。貞慶の念持仏だったという。やや左に腰を捻り、左手に蓮華を持つ。彩色はなく、緻密な彫刻が施されている。頭上の仏面は3段になっており、1段目に7面、2段目に3面、3段目に1面が載る。宝冠、蓮華は銅製。7面以下は一材の丸彫りになる。奈良国立博物館寄託。 木造、カヤ材、一木造、檀像、素地。 ◈ 本堂にはほかに「役行者像」「飯縄大権現像」、文殊堂に「文殊菩薩坐像」「阿弥陀如来坐像」を安置している。 ◈ 五重塔、須弥檀四方の鎌倉時代の「四天王立像」(重文)(奈良国立博物館寄託)は、北、東、西、南を守護する。彩色がいまもよく残されている。静的で青色の顔と手の「多聞天像」(35.8㎝)、片手を上げた動的な緑色の「持国天像」(36.7㎝)、静的な白色の「広目天像」(36.5㎝)、動的な赤色の「増長天像」(38.3㎝)による。いずれも木造、彩色、玉眼。 ◈ほか、不動明王像、薬師如来像、普賢菩薩像が乗らない六牙象などがある。 ◆建築 ◈ 「本堂」、「薬師堂」がある。 ◈ 「五重塔」(国宝)は、鎌倉時代前期、1214年に、貞慶(1213年死去)の後継・慈心覚心上人(藤原長房)によって建立された。現存する鎌倉時代唯一の初層の下に裳階(もこし)付き五重塔になる。室生寺の五重塔(高さ16m)に次いで小さい。 現代、1962年の解体修理により、初重の軒下に庇部分の吹き放ちの裳階が復元され、一見すると6層に見える。裳階には、壁がなく開放されている。初層天井に心柱が据えられ、心礎がない。初層内部に心柱がない。ほかには、奈良・法隆寺にしか見られないという。初層内部の四天柱間に東西南北4面の両開き扉を設け、内陣を厨子(ずし)風にしている。この8枚の扉に梵天・帝釈天・天部・比丘尼像などが描かれている。床以外の全面に装飾文様が施されている。朱塗り、高さ17.10m/17.7m、初重総間2.74m。毎年10月下旬に公開されている。 ◈ 「文殊堂」(重文)は、鎌倉時代後期、1312年に建立された。かつて、鎌倉時代前期、1225年に建立された経蔵だった。当初は檜皮葺。近世には文殊菩薩騎象像が安置されたため、文殊堂と呼ばれた。軒下に美しい蟇股がある。 3間2間、一重寄棟造、銅板葺。 ◈ 「鐘楼」が建つ。「梵鐘」は 鋳物師丹治国忠作、室町時代後期、1527年の鋳造による。 ◆文化財 ◈ 鎌倉時代の絹本著色「法華曼荼羅図」(重文)、鎌倉時代の「法華経曼荼羅図」(重文)。 ◈ 鎌倉時代-室町時代「海住山寺文書」24通(重文)。そのうち、鎌倉時代前期、1208年の貞慶自筆の「仏舎利安置状」・「海住山寺修正会神名帳」、1213年の自筆署判「貞慶起請」。 ◈ 「海住山寺縁起絵巻」上下2巻は、江戸時代前期、1664年、詞書、絵11段。狩野永納による。良弁の開創、貞慶、慈心の再興、観音像の霊験などについて描かれている。 ◈ かつて海住山寺本堂の壁画だった板絵「十一面観音観音来迎図」(191.8×197.7cm)、「補陀落浄土図」(190×202cm)が奈良国立博物館に寄託されている。前者は観音菩薩が23菩薩衆とともに来迎する様を描く。後者は観音菩薩が住む補陀落山を表す。墨書により、室町時代後期、1473年に「補陀落山図」として描かれ、慶継を開眼導師として供養された。絵師は加賀守、任阿弥陀仏、妙忻、信覚、妙覚、理潤法界の6人による。施主は津越連任といい、瓶原七人衆の一人であり周辺を支配した土豪という。ヒノキ材の板(厚さ1cm)を横に重ね、漆下地の上に白土下地を施して描き、木枠がある。本堂の本尊を安置した宮殿の左右、柱、貫の間に向かい合わせに嵌め込まれていた。 ◈ 「木造彩色宝珠台」(京都府指定文化財)は、14世紀(1301-1400)末、鎌倉時代後期-南北朝時代の作とみられている。仏教由来の宝珠信仰を示している。男山を模し、表面に石清水八幡宮、裏面に聖徳太子が経を説く様が描かれている。頂上部の円形窪みに宝珠を載せている。国内に類例を見ないという。 内部に「金銅能作性塔」(京都府指定文化財)があり、宝石を入れるための金銅製の容器だった。 ◆庭園 本坊庭園は、江戸時代に作庭された。仏生寺山を借景とし、刈込、苔、石組、木斛などの植栽の構成による。 ◆海住山寺 海住山寺の創建についての伝承がある。 第45代・聖武天皇(701-756)は、奈良・東大寺大仏殿建立に際して夢告を得た。鬼門に当たるこの地、補陀落山に伽藍建立すると、東大寺伽藍鎮護、大仏造立の大願成就になるという。良弁は、当山建立中に、ある夜、雷雨があり、その後、光明射して十一面観音菩薩が現れたため、この地に、大堂を建立したという。 補陀落山海住山寺の山号寺号については、貞慶(1155-1213)により名づけられた。「補陀落」とは、観音の補陀落浄土への往生を望む意味という。「海住」とは、「観音の誓願海に安住する」(『明本抄日記』)を意味していた。 補陀落山海住山寺とは、観音菩薩が住する南海の補陀落山に因んでいる。観音浄土の深海に、慈悲行道を実践する場所を定めるという意味が込められていた。 ◆木津川の説話 良弁は、東大寺大仏殿の良材を伊賀より求め、木津川の筏を使って運搬しようとした。この時、川を塞いでいた大岩が4町あまりあり、運航に支障をきたした。良弁は笠置山に籠り、秘法を行う。雷雲光を放ち、大雨、洪水になり岩は自然に流れ去ったという。岩は二つに割れ、一つは下流3里に流れ着き、飯岡(いのおか)、もう一つはこの地に残り流岡(ながれおか)になったという。 ◆墓 五重塔に解脱上人(貞慶)、慈心上人伝来という仏舎利を祀る。五重塔は、鎌倉時代前期、1213年に亡くなった解脱の遺志を継ぎ、その冥福を祈るために慈鎮が建立した。解脱の墓石である五輪塔は、八角基壇上に立てられている。 ◆年間行事 特別展(五重塔・文殊塔の開扉、十一面観音菩薩立像が里帰り)(10月最終土曜日より10日間)。除夜の鐘(鐘が撞ける。縁起もの入りのお宝まき。)(12月31日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『南山城の古寺』、『京都・山城寺院神社大事典』、『笠置山の景勝と史跡』、「特別展 南山城の寺社縁起」、『京都古社寺辞典』、『京都の寺社505を歩く 下』、『寺社建築の鑑賞基礎知識』、『古都歩きの愉しみ』、『京都府の歴史散歩 下』、『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』、『意外と知らない京都』、『仏像』、『京都の仏像』、『古佛』、『京都傑作美仏大全』、『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来 (京都)』、『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』、『ゆっくり愉しむ 京都仏像巡 りベストガイド』、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「奈良国立博物館」 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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