専修寺別院 (京都市右京区)  
Senjuji-betsuin Temple
専修寺別院 専修寺別院
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表門

表門


表門


本堂

本堂






「宗祖 親鸞聖人御影」


一光三尊仏の石塔


一光三尊仏の石塔






「贈従四位 飯田忠彦先生墓所」の石標


飯田忠彦の墓
 専修寺別院(せんじゅじ-べついん)は、音戸山(おんどやま、165m)の南麓にある。
 真宗高田派専修寺(三重県津市高田一身田町)の別院であり、本尊は阿弥陀如来像を安置する。
◆歴史年表 安土・桃山時代、天文年間(1532-1555)、高田派第11世・応真は、宗祖・親鸞(1173-1262)が、かつて二条冷泉冨小路か二条の辺に寓居したとして追慕し、一条柳原に一宇を建立した。「柳原坊」と号した。(寺伝)
 その後、火災になる
 1587年、堯恵が、間之町(あいのまち)押小路高田町に一宇を再建し、「高田坊」に改めた。北政所の化粧殿を移し本堂にする。宇治・恵心院の本尊、恵心僧都(942-1017)作の阿弥陀如来坐像を遷して本尊にしたという。(寺伝)
 その後、火災により諸堂が焼失する。
 江戸時代、1605年、堯恵の時、間之町押小路(中京区高田町)に移るともいう。
 1617年、堯隆の時、河原町二条清水町(中京区)に移る。本堂は聚楽第の化粧殿を移したという。
 1683、恵隆の時、命により、河原町に再建し「本誓寺(ほんせいじ)」に改める。本山掛所であり、「又里坊」、「高田坊所」、「高田御坊」とも呼ばれた。夷川通に面していた。(寺伝)
 1708年、宝永の大火により類焼した。
 1745年、5月、第115代・桜町天皇は、本寺の霊仏である一光三尊仏を宮中に迎えて供養礼拝した。(寺伝)
 1788年、天明の大火に類焼する。その後、表門を河原町通に移している。(寺伝)
 1792年、桜町天皇の女御・青綺門院(せいき もんいん、1716-1790)の遺命により、銅灯篭一対、寄進される。(寺伝)
 1799年、桜町天皇は唐金花瓶一口、有栖川宮幟仁親王妃、善喜院より水引、華鬘、円台院宮より水引、戸帳、打敷を寄進される。(寺伝)
 近代、1882年、「専修寺別院」と改称する。境内奥地に御殿が建てられ、歴代法主の宿所に当てられる。法主の上洛に際して、本願寺法主らが御殿を訪問する。(寺伝)
 1947年、失火により、本堂、御殿などが焼失した。
 現代、1961年、現在地の宇多野(右京区)に移り再建される。墓地、塔頭5寺のうち、2寺(大仙寺、竜源寺)も共に移る。(寺伝)
◆応真 安土・桃山時代の真宗高田派の僧・応真(?-?)。詳細不明。高田派11世。第104代・後柏原天皇(1464-1526)の綸旨(りんし)により、住持職になる。江州、京都で教化した。三日市兼帯所の焼失に際して、復興を助けた。
◆飯田忠彦 江戸時代後期の国学者・歴史家・勤王家・飯田忠彦(いいだ-ただひこ、1799-1860)。本姓は里見、通称は要人、刑部、左馬、字は子邦、号は黙叟(もくそう)、環山、夷浜釣叟(いひんちょうそう)など。周防国(山口県)・徳山藩士・里見義十郎/生田兼門(十蔵)の子。1821年、河内国八尾の郷士・飯田兼介に養われ、後に離縁した。16歳の時、水戸藩の『大日本史』を読み、続史の編纂を志した。1833年、上京し夷川河原町に住む。1834 年、有栖川宮(ありすがわのみや)家に仕える。1851年、『野史(やし)』を完成し禁裏に献じた。志士と交わる。1858年、安政の大獄に橋本左内に通じていた志士・飯泉喜内に連座して捕えられ、京都で100日の謹慎処分を受ける。水戸への勅書下賜に奔走した。1860年、桜田門外の変で捕らえられ、取り調べ中に怒り、伏見奉行所で割腹自殺した。62歳。
 著書の歴史書『野史(大日本野史、日本野史)』は、独力で38年間を要し、1851年に完成した。南北朝時代の北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇(在位:1392-1412)より江戸時代、第120代・仁孝天皇(在位:1817-1846)までの天皇伝記、臣下列伝を記述している。420年余の歴史であり、紀伝体・漢文で叙述した。没後の1882年に刊行され、近代、 1906年、山田安栄が補訂刊行している。合計291巻、本紀21巻、列伝270巻、巻首3巻からなる。ほかに、770家の系図を考証した『系図纂要』103冊など。
 専修寺別院・塔頭・竜源院(右京区)に葬られた。
◆一光三尊仏 本堂に「一光三尊仏」を安置する。中尊・阿弥陀如来像、脇侍仏として右に観音菩薩像、左に勢至菩薩像が立つ。三尊が一つの光背内にあるため、一光三尊仏と呼ばれている。
 江戸時代、1745年4月から1カ月にわたり、本寺の一光三尊仏の初めての京都での出開帳が行われた。5月、第115代・桜町天皇は、仏を宮中に迎へて供養礼拝した。その後、同尺寸の模像を彫刻させ、以後、宮中に安置した。
 1750年、天皇没後、第116代・桃園天皇は遺詔により、三尊仏と翠簾(すいれん、すだれ)を当寺に寄進した。
 以来、毎年1回の開扉では供養法会を行っている。
◆建築  ◈「表門」は鐘楼門になっている。唐破派風付き。
 ◈「本堂」は鉄筋コンクリート造。
◆大日本史 歴史書『大日本史』は、水戸藩2代藩主・徳川光圀(1628-1700)が編纂を手がけた。江戸時代、1657年、江戸駒込・藩邸に史局を設け、1672年、小石川の上屋敷(後に彰考館)に移して編纂が続けられた。一時中断し、寛政年間 (1889-1801) に再開された。最終的には、近代、1906年に完成している。
 執筆した学者らは水戸学派と呼ばれた。初代・神武天皇(在位、紀元前711-紀元前585)-南北朝時代の後小松天皇(在位 :1392-1412)までの歴史を、漢文の紀伝体で記述している。
 編纂の特徴として、①神功皇后(在位 :201-206)を皇位から除いている。②飛鳥時代の大友皇子(第39代・弘文天皇、在位672)を皇位に加えている。③南北朝時代の南朝を正統としている点が挙げられる。
 本紀73巻、列伝170巻、志126巻、表28巻、全体で4部397巻(別に目録5巻)ある。
 後に、飯田忠彦は『大日本史』感銘を受け、36年の歳月を費やして独力で続編『外史』を記述する。『大日本史』は、幕末の勤王思想にも大きな影響を与えた。
◆墓 江戸時代後期の国学者・歴史家・飯田忠彦の墓がある。
 江戸時代-近代の四条派の画家・今尾景年(いまお-けいねん、1845-1924)、江戸時代-近代の画家・舞台美術家・久保田米僊(くぼた-べいせん、1852-1906)、江戸時代中期-後期の儒者・巌垣彦明(いわがき-ひこあき、竜渓、1741-1808)の墓がある。
◆音戸山 音戸山には、かつて山頂に蓮華寺があった。五智如来像を安置し、五智山とも呼ばれていた。
 その後、寺、石仏は仁和寺の東に移り、蓮華寺(右京区)としてある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料  ウェブサイト「真宗高田派本山 専修寺」、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺蓮華寺  周辺   関連恵心院(宇治市)     

裏山のツツジ

大仙寺

大仙寺

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【参照】近くの竹林
 
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
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