大泉寺 (京都市下京区)
 Daisen-ji Temple
大泉寺  大泉寺 
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 大泉寺(だいせんじ)は、鎌倉時代の浄土真宗の祖・親鸞の旧跡地ともいわれ、真宗門徒からも崇敬される。「華園御坊」ともいう。山号は花降山(かこうざん)という。 
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 創建の詳細不明。
 平安時代-鎌倉時代、この地(五条西洞院)には、関白・九条兼実(1149-1207)の別墅(べっしょ、別荘)だった「月輪本庄(つきのわほんしょう)花園殿」があったという。場所は、西洞院通の松原通(旧五条大路)から万寿寺通(旧樋口小路)の一帯ともいう。
 親鸞(1173-1263)は、この地で兼実の息女・玉日姫と結婚し過ごしたともいう。
 鎌倉時代、1232年、親鸞が関東から帰洛後、この地で過したともいう。また、葦を編んで垣とし、草庵を営んだとされ、「葭牆(よしかき/よしがき)御坊」とも呼ばれたという。
 1262年、親鸞は花園殿で入滅したともいう。
 安土・桃山時代、1595年、公賢が花園殿跡に大泉寺を建立したという。
 江戸時代、1637年、万寿寺通に間口10間、西洞院通に間口25間の境内があったという。(『洛中絵図』)
 その後、浄土真宗から浄土宗に改宗した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、境内は縮小する。
◆九条兼実 平安時代後期-鎌倉時代前期の政治家・九条兼実(くじょう-よしみち、1149-1207)。月輪殿、後法性寺殿。父は摂関家の藤原忠通、母は女房加賀(藤原仲光の娘)。1166年、右大臣になる。1156年、異母姉の皇嘉門院の猶子になる。1158年、兄・基実の猶子として元服した。左近衛権中将、権中納言、左近衛権中将、権大納言・右近衛大将、内大臣を経て、1166年、右大臣に進み、1174年、従一位に昇る。1179年、平清盛の権力奪取後、1185年、頼朝内覧の宣旨により、1186年、摂政・藤原氏長者になる。1187年、記録所を設ける。1189年、太政大臣、1190年、娘・任子を入内させ、第82代・後鳥羽天皇中宮にさせる。1192年、後白河法皇(第77代)没後、頼朝に征夷大将軍を宣下する。だが、1196年、政変により失脚した。弟の天台座主・慈円の後見になり仏教界に影響を及ぼす。息子、妻を亡くし法然に帰依した。1202年、出家、円証と号した。山荘の月輪殿に隠棲する。
 和歌に親しみ、藤原俊成・定家らの庇護者になる。40年間の日記『玉葉』がある。 
 九条家を興した。内山に葬られた。墓は現在、東福寺内にあり、1881年に公爵・九条道孝が「発見」したという。ただ、確定されていない。59歳。
 法然の弟子・親鸞の妻は、兼実の娘であり、親鸞は晩年に兼実の花園別邸に過ごし、亡くなったともいう。
◆親鸞 平安時代後期-鎌倉時代中期の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。法名は綽空(しゃくくう)、善信、範宴、号は愚禿(ぐとく)、諡号は見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で亡くなったという。浄土真宗の祖。90歳。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆恵信尼 平安時代後期-鎌倉時代中期の女性・恵信尼(えしんに、1182-1268?)。筑前(ちくせん)。越後介・兵部大輔・三善為教の娘ともいう。1207年、29歳の頃、越後流罪中の親鸞と結婚した。京都だったともいう。1211年、越後で明信を産む。赦免された親鸞と共に、1214年、一家で関東に赴く。上野国から常陸国に移住した。1216年頃、京都に移る。1224年、末女・覚信尼が生まれる。1234年、親鸞の帰京時に恵信尼も帰京したともいう。直接越後に赴いたともいう。1254年以前、越後に下り、覚信尼に下人を譲る。1256年、親鸞は子・善鸞を義絶した。恵信尼は覚信尼に下人の譲状を送り、再び譲状を送る。1261年、病いになる。1268年、越後に没した。87歳?。
 3男3女、小黒女房(こぐろにょうぼう)、善鸞(ぜんらん)、明信(みょうしん)、益方(ますかた)、高野禅尼(こうやぜんに)、覚信尼(かくしんに)を産む。親鸞の妻は恵信尼一人とも複数ともいう。前妻は玉日姫ともいう。子・善鸞は実子とも、異なるともいう。親鸞の関東からの帰京に際し恵信尼も帰京した、居留したともいう。恵信尼の晩年は国府辺、板倉、とひたのまきにあったともいう。
 1921年、西本願寺の宝物庫から恵信尼の書状「恵信尼消息」 10通(1256-1268)が発見された。晩年の恵信尼が越後より、京都の娘・覚信尼に宛てた書状だった。
◆本尊 本尊の「阿弥陀如来」は、中興した賢公に霊夢があり、本尊が極楽の様を顕わし天華が降ったとして「花降(はなふり)如来」と呼ばれた。
 また、右袖を脱ぎ、衆生引接(しゅじょういんじょう、臨終に際して仏が現れ死者を浄土に導く)の相を表すとして「片袖(かたそで)如来」とも呼ばれた。
◆熊野詣出の段 親鸞の逸話がある。
 親鸞は関東から帰京し、当寺付近の五条西洞院辺りに居を構えたとみられている。親鸞の元へ参集した者の中に、常陸国の平太郎という庶民がいた。
 平太郎は、主君の命により熊野詣での途中という。だが、熊野権現に現世利益を求めることに気乗りしなかった。親鸞は、内懐虚仮、内心に嘘偽りを懐いてはならないと諭して平太郎を送ったという。(『御伝鈔』下巻第5段)。
◆花園亭 花園殿には、かつて月見池、月見松、虎石、親鸞数珠掛けの梅などがあったという。
 その名残として書院裏庭に「月見の池」がある。かつて湧水は西洞院川に注いでいた。ある時、兼実は、帰依した法然を花園殿に招いた。橋上に立った法然の頭上には、満月のような円光があったことから「月見の池」と名付けられたという。また、法然は、橋上から池面に映る満月を愛でていたためともいう。この故事に因み、江戸時代には、付近は月見町と名付けられた。
 昭和20年代の地下鉄工事に伴い、湧水は止み、現在は涸れている。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『日本の名僧』、『事典 日本の名僧』、『京都 歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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大泉寺 〒600-8453 京都市下京区月見町54,万寿寺通西洞院東入ル  075-351-4320
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