長坂口 (京都市北区)
Nagasakaguchi
長坂口 長坂口 
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御土居

御土居遺構


長坂口付近の町屋



【参照】古道「長坂峠」
 古道の長坂口(ながさか-ぐち)は、鷹峯から長坂を経て杉坂に至る丹波街道の登り口付近をいう。京都の七口の一つであり、古くより関所が設けられていた。 
◆歴史年表 平安時代、1184年、旧1月、木曽義仲は京都を出る際に長坂を通った。(『源平盛衰記』)
 鎌倉時代、1333年、内蔵寮(くらのりょう)の率分関(りつぶんせき/そつぶんせき)が置かれた。関所はそれ以前よりあったとみられている。(『内蔵寮等目録』)
 1355年、主殿寮領の小野山内に率分関が置かれた。(「主殿寮領諸領綸旨院宣符案」)
 室町時代、1406年以前、関所が復活し、この頃には内蔵寮の山科家が管理していた。(『教言卿記』)
 1449年、旧4月、地震により山岸が崩壊し、「若狭海道小野長坂」で「荷負馬多斃死」した。(『康富記』)
 1467年、旧6月、丹波国土豪・宇津氏らは「長坂峠(京見峠)」に居り、上下通行を保護していた。(『応仁別記』)
 1520年、旧5月、「長坂口村」が登場する。(『永正十七年記』)
 1527年、旧11月、「長坂口之上山」と記されている。(『鹿苑日記』)。この頃、鷹峯丘陵上が長坂口とされた。
 1569年、旧12月、「長坂口商売人中」は、「長坂口同枝路」で「御行水銭」を徴収している。(『真継文書』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)
、長坂口とは蓮台野村付近を表した。(「京都御役所向大概覚書」)
 安土・桃山時代、1581年頃まで、紺灰座(こんばいざ)が存在した。
 1582年、旧1月、長坂口カノは山科家に10疋の礼銭を納める。(『言経郷記』)
 1591年、豊臣秀吉は御土居を築造させ、長坂口は開口していた。
 1594年、旧4月条、東寺から「すい坂(杉坂)」までの「京惣廻(御土居)枯竹」を佐野某が受け取った。(『駒井日記』)
◆長坂口 長坂口は、京都の千本通から丹波桑田郡、若狭に通じていた。長坂は鷹峯-京見峠への坂道を指し、その先は杉坂、丹波周山、山国荘に向かった。
 長坂は戦国期までは戦場になる。街道には小野山供御人(くごにん)が住み、朝廷に墨・松明を貢納し、戦国期には運送を担った。釜殿(かなやどの)は、禁中湯屋を担い釜殿領に行水・柴木の役銭を納めた。鎌倉時代には率分関も設けられた。室町時代に、藍染触媒用の灰を扱う独占的な4つの紺灰座(こんばいざ)も生まれた。安土・桃山時代-江戸時代、17世紀に、そのうちの佐野家は豪商になり「灰屋」と称している。
◆率分関 率分関は、鎌倉時代以後、官司が設置し運営した関所をいう。平安時代の朝廷、官司の財収源になっていた率分、率分堂(率分所)の代替として成立したとみられている。
 少なくとも鎌倉時代後期、徳治年間(1306-1308)には存在し、官司の内蔵寮(くらりょう、律令制で中務省に属した)、内膳司、御厨子所、内侍所、主殿寮(しゅでんりょう/とのもりのつかさ、律令制下の宮内省に属した)などに所属した。長官を務めた公家の収入源になり、官司の経費が支出されていた。
 京都の七口関にも率分関が設置されていた。鎌倉時代後期、1333年には山科家の管理する率分所として、京都東口の四宮川原関、長坂口関があった。(「内蔵寮領等目録」)。安土・桃山時代、豊臣政権の下で廃されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都市の地名』、『平安京散策』、『都市-前近代都市論の射程』、ウェブサイト「コトバンク」



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