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宗忠神社 (京都市左京区) Munetada-jinja Shrine |
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宗忠神社 | 宗忠神社 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 逆立ちした狛犬 ![]() ![]() ![]() 本殿 ![]() ![]() 本殿 ![]() 忠春社、祭神は赤木忠春神 ![]() 白山社、祭神は白山比咩大神(菊理媛尊)、伊弉許尊、伊弉冉尊。かつてよりこの地にあった神。 |
吉田山(神楽岡)南東の丘陵地に宗忠神社(むねただ-じんじゃ)がある。 祭神は、幕末期の新興宗教・黒住教(くろずみきょう)の教祖・黒住宗忠、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。旧府社。 黒住教は、幕末の日本三新宗教(ほかに天理教、金光教)のひとつ。 ◆歴史年表 江戸時代末期、1856年、神祇管領長上・吉田家より「宗忠大明神」の神号を与えられる。 1862年、黒住教門人・赤木忠春により現在地に宗忠神社が創建された。 1866年、第121代・孝明天皇の唯一の勅願所になり、皇室、二条家、九条家などの信仰も集める。従四位下の神階になる。 近代、1872年、神道より別派独立し、神道黒住派となる。 ◆黒住宗忠 江戸時代後期の神道家・黒住宗忠(くろずみ-むねただ、1780-1850)。幼名は権吉、通称は左之吉、右源次、諱は宗忠。備前国(岡山県)今村宮の禰宜(ねぎ)家・黒住宗繁の3男、母はつた。1803年、最初の伊勢参宮をした。1810年、父の跡を継ぎ禰宜になり、左京宗忠を名乗る。1812年、両親を相次いで亡くし、自らも肺結核に罹る。1814年、天照太神と同魂同体になる霊体験「天命直授(てんめいじきじゅ)」により平癒し、以後、神道講釈、禁厭(きんえん、まじない)などの宗教活動に入る。著は7カ条の教義『日々家内心得之事』『御定書』。71歳。 神道系新宗教の魁となる黒住教を開いた。神人合一を説き、天命(太陽神)を中心とし、人心をその分霊とした。庶民、岡山藩士に積極的に布教した。死後、京都・吉田家から「宗忠大明神」の号が授けられる。 ◆赤木忠春 江戸時代後期の黒住教の布教者・赤木忠春(あかぎ-ただはる、1816-1865)。姓は陶(すえ)、名は忠春、号は赤木霊社、宗一郎。美作国(岡山県)の庄屋・陶太郎左衛門の子。のち、大庄屋・赤木常五郎の養子になる。1837年、失明し、1845年、黒住宗忠の黒住教に入門し視力を回復した。1850年、教祖の死後、1851年より、京都で布教した。吉田神道に接近し、1856年、宗忠大明神号を獲得する。公卿へも布教した。1862年、宗忠神社の建立の許可を得る。以後、大元(岡山の本部)から別派独立の嫌疑を受け、1864年、元本部より破門された。尊王攘夷派の志士とも交流した。著『七箇条諭弁』。50歳。 天照大神の信仰を説く。「黒住教六高弟」の一人、黒住教贈大教正。関白・九条尚忠、三条実美、尊王攘夷派の志士とも交流した。和漢、歌も能くした。 ◆建築 ◈ 「本殿」は、1912年に改築された。流造。 ◈ 「拝殿」は、1937年に改築された。 ◈ 本殿と並ぶ「神明宮」は、二条家関白殿の鎮守神明宮を、江戸時代末、1866年に移したという。天照大神を祀る。 ◆鳥居 二の鳥居、祖霊神社は、「宗忠鳥居」と呼ばれている。化粧仕立の鹿島鳥居であり、それに額束を付ける。鹿島鳥居は、柱外に水平の貫が出ており、丸太の笠木に反りがある。神明鳥居より島木鳥居への変遷を示している。 当初の二の鳥居は、1922年に伊勢鳥居に建替えられた。1982年、現在の石造の鳥居に建替えられた。 祖霊神社の鳥居は、1904年に建立された。石造。 ◆神井戸 境内に井戸を掘ったが山頂のために湧水はなかった。赤木忠春が神前に供えた神水を井戸に注ぐと、翌朝、湧き出たという。 神慮にかなわないことがあると水が濁るという。 ◆年間行事 例祭(4月25日)、神明宮の例祭(10月17日)。 *年間行事は中止、日時変更の可能性があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都古社寺辞典』、『京都大事典』、『鳥居』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 神井戸 |
![]() 神井戸 |
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