中原中也の下宿跡 (京都市上京区)
Former lodging house of Nakahara, Chuya
中原中也の下宿跡 中原中也の下宿跡 
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中也の唯一残る下宿跡、非公開


小さな窓が「スペイン風」?


NPO京都中也倶楽部によって催された中也展より


中也の研究書と右上は遺品の着物
 今出川一条目下ル中筋角に町屋が残されている。
 近代の詩人・中原中也は、2年間余りを京都で過ごし、この町家にも一時、住んでいる。
◆歴史年表 近代、1923年、4月、中也は京都の立命館中学第3学年に編入学した。
 1925年2月-3月、中也はこの下宿に住んだ。3月、中也は長谷川泰子と共に上京する。
◆中原中也 近代の詩人・中原中也(なかはら-ちゅうや、1907-1937)。山口県吉敷郡生まれ。陸軍軍医・柏村謙助の長男、母はフク。1907年、生後間もなく母とともに父の任地である中国旅順・柳樹屯に移った。1909年、父の転勤で広島に転居する。1912年、父の転勤で金沢に転居した。1914年、山口に帰り、下宇野令尋常高等小学校に入学した。1915年、弟・亜郎が病没し、中也の詩作が始まる。父・謙助がフクの原籍・中原になった。湯田で医院を開業した中原政熊・コマ夫妻との養子縁組を決め中原姓になる。養祖父母は信仰心の厚いクリスチャンだった。1918年、山口師範学校附属小学校に転校した。1920年、「防長新聞」に投稿した短歌が入選し投稿を続けた。 県立山口中学校に入学し文学に耽る。1922年、上級生・宇佐川紅萩、「防長新聞」記者・吉田緒佐夢と共著の私家版歌集『末黒野(すぐろの)』を刊行した。1923年、3月、中学を落第し、4月、京都に移り、立命館中学第3学年に編入学した。 高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を読み、詩を本職にする覚悟をした。12月、表現座所属の女優・長谷川泰子を知る。1924年、4月、泰子と同棲した。 7月、詩人・富永太郎を知り、フランス象徴詩を学んだ。1925年 3月、泰子と共に上京する。 4月、小林秀雄と知り合う。 11月、泰子は秀雄の許に去り深い傷を負う。この頃、詩に専心しようと決意した。1926年4月、日本大学予科に入学した。 5月-8月、「朝の歌」を書く。 9月、日本大学を退学する。 11月頃、語学学校アテネ・フランセに通う。1928年5月、音楽団体スルヤ発表演奏会で「朝の歌」「臨終」が歌われ、歌詞が機関誌「スルヤ」に掲載される。 父・謙助が病没した。 1929年-1930年、河上徹太郎らと同人誌「白痴群」を創刊した。1930年12月、泰子が演出家・山川幸世の子を産みその名付け親になっている。1931年4月、東京外国語学校(現・東京外国語大学)専修科仏語に入学した。 9月、弟・恰三が病没した。1932年 、詩集『山羊の歌』は資金不足で刊行されなかった。1933年3月、東京外国語学校専修科を修了した。 5月、「紀元」の同人になった。 12月、遠縁・上野孝子と結婚した。訳詩集『ランボオ詩集』を刊行する。1934年 、長男・文也が生まれた。 12月、第一詩集『山羊の歌』を刊行し、詩壇に認められる。1935年5月、「歴程」の同人になり、「四季」の同人になることを承諾した。1936年6月、フランス詩の訳詩集『ランボオ詩抄』を刊行した。 9月、NHKの入社面接を受け、就職しなかった。 11月、長男・文也が病没し、以後、精神の均衡を失う。 12月、次男・愛雅が誕生した。1937年 1月、千葉市の中村古峡療養所に入院する。 2月、退院した。鎌倉・福寺境内の寓居に転居する。夏、帰郷を決意する。 9月、訳詩集『ランボオ詩集』を刊行し、第二詩集『在りし日の歌』を編集し、秀雄に託した。 10月、入院後に結核性の脳症により死去した。 31歳。
 詩作品350篇ほどを残している。高橋新吉により短歌からダダイスト風の詩作に転じた。富永太郎によりフランス象徴派の詩人を知る。フランスの詩人・ランボー、ベルレーヌに傾倒した。小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らと親交した。
 没後、翌1938年、次男・愛雅も病没している。友人たちの尽力により『在りし日の歌』が刊行された。1994年、山口市の生家跡地に中原中也記念館が開館した。
◆長谷川 泰子 近代の女優・長谷川泰子(はせがわ-やすこ、1904-1933)。広島県の生まれ。広島女学校実科を卒業した。1923年、表現座の大部屋女優をしていた時に、京都で16歳の中原中也と知り合う。劇団解散後、中也原の部屋に移り同棲を始める。1925年、中也とともに上京した。中也の文学仲間・小林秀雄を知り、秀雄との同棲を始める。精神の均衡を崩した。1928年、秀雄は単身で奈良に出奔した。泰子は松竹シネマ蒲田撮影所に入社する。同年、中也と京都旅行をしている。1930年、左翼の演劇青年・山川幸世の子を産み、中也が名付け親になった。1931年、懸賞「グレタ・ガルボに似た女」に当選する。1934年、中垣竹之助と同棲した。1936年、竹之助と結婚した。著『ゆきてかへらぬ』。31歳。
◆冨倉 徳次郎 近現代の国文学者・冨倉徳次郎(とみくら-とくじろう、1900-1986)。東京の生まれ。第二高等学校理科、東京帝国大学理学部を経て、1926年、京都帝国大学文学部国文科を卒業した。その後、京都女子専門学校教授を命じられる。軍隊に従軍した。1952年、駒澤大学に着任し教授、国文学科主任、大学院国文専攻主任を歴任した。1959年、『平家物語の基礎的研究-平曲史との関連に於いて見た平家物語の成立過程の考察』で博士号を取得する。その後、京都女子大学、二松学舎大学、大正大学などで教えた。著『平家物語全注釈』『とはずがたり』など。 86歳。
 京大時代に立命館中学講師になり、中原中也に教えた。中也が答案の代わりに詩を書いたことから知り合う。友人・富永太郎を中也に引き合わせた。
◆富永太郎 近代の詩人・画家・富永太郎(とみなが-たろう、1901-1925)。東京生まれ。富永謙治の長男、母は園子。1914年、東京府立一中入学した。1919年、生物学を志し、仙台の第二高等学校理科乙類に入学する。ショーペンハウアー、ニーチェ、ボードレールに傾倒した。1921年、人妻H・Sとの恋愛事件を起こして退学する。1922年、東京外国語学校仏語科に入学し、ボードレールの翻訳、詩作を始める。1923年12月-1924年1月、上海に遊び、絵の修業を始める。1924年、外国語学校を中退する。7月、京都で、立命館中学在学中の中原中也と出会う。12月、府立一中の後輩・小林秀雄、河上徹太郎らの「山繭(やままゆ)」同人になる。1925年、肺結核が悪化し、自死した。著『富永太郎詩集』『富永太郎詩画集』。24歳。
 日本初のフランス象徴派風詩人として知られた。ボードレール、ランボーなどの影響を受け翻詩した。散文詩も書き、油絵も描いた。
 1925年7月、友人で京大在学中の正岡忠三郎を頼り京都へ行く。立命館中学在学中の中原中也と出会った。フランスの詩を中也に教え、中也が本格的な詩作を始める契機になった。小林秀雄らの『山繭』同人になり小林も太郎に感化を受ける。
◆中也 中原中也は1923年3月に山口中学を落第し、4月に立命館中学校に3年生から編入した。
 中也の京都市内での下宿跡は8カ所あった。そのうち現存しているのは、鴨川西の「寺町今出川一条目下ル中筋角」大宮町の下宿跡のみになっている。この下宿には、1925年2月-3月まで住んでいた。
 京都の下宿の東には、細い中筋通がある。「スペイン風掃き出し窓」と中也が触れ込んだ下宿は、その後、友人が引き継いだ。当時、下宿の東にある河原町通はまだなく、西の寺町通には市電が走っていた。北の今出川通の東は行き止まりであり、鴨川に現在の賀茂大橋はまだ架橋されていなかった。
 中也は、下宿近く丸太町の古本屋で、詩人・高橋新吉(1901-1987)の詩集『ダダイスト新吉の詩』(1923)を手にし、以後、一時はダダイズムに傾倒する。ダダイズムとは、第一次大戦中のヨーロッパでの反戦・厭戦的な思想潮流であり、既存の言語表現などに懐疑を抱き反芸術を唱えた。
 1923年12月に大部屋女優・長谷川泰子(1904-1993)と出会い、1924年4月より、この下宿でも彼女と同棲している。中也17歳、泰子は20歳だった。
 京都で国文学者・冨倉徳次郎(1900-1986)とも親しくなる。徳次郎は、京大時代に立命館中学講師をしており、中也に教えていた。中也が答案の代わりに詩を書いたことから互いに知り合った。徳次郎は、友人・富永太郎を中也に引き合わせた。
 1924年7月に、中也は詩人・画家・富永太郎(1901-1925)と知り合った。太郎は、友人で京大在学中の正岡忠三郎を頼り京都に遊びに来ていた。太郎は、フランスの詩を中也に教え、中也が本格的な詩作を始める契機になった。
 1925年3月に、中也は中学の卒業を待たずに、泰子とともに上京した。4月に、東京では文芸評論家・小林秀雄(1902-1983)と知り合っている。間もなく、泰子は小林と同棲するようになり、中也は精神的に痛手を負う。泰子は後に秀雄とも別れた。中也、泰子、秀雄の3人の関係はその後も続いた。
◆中也作品のなかの京都 中原中也作品の中に京都の描写がある。
 ◈下宿から見える風景、界隈の情景は、『ゆきてかへらぬ』の中で中也が触れている。
 「僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐた。/木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。/棲む人達は子どもらは、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。‥」
 風信機とは向かいの家にあった風見鶏で、かつては下宿の窓から見えていたという。
 ◈初の詩集『山羊の歌』(1934)には、京都で詠んだ詩をもとにした巻頭詩『春の日の夕暮』も収められている。「トタンがセンベイ食べて 春の日の夕暮は穏かです‥/ポトホトと野の中に伽藍は紅く 荷馬車の車輪 油を失ひ 私が歴史的現在に物を云へば 嘲る嘲る 空と山とが/瓦が一枚 はぐれました これから春の日の夕暮は 無言ながら 前進します 自らの 静脈管の中へです」とある。

*参考文献・資料 ウェブサイト「中原中也記念館」、ウェブサイト「コトバンク」


    賀茂大橋    
中原中也の下宿跡 京都市上京区寺町今出川一条目下ル中筋角 

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