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若宮八幡宮旧社地・源氏堀川館跡 (京都市下京区) Wakamiya-hachimangu Shrine |
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若宮八幡宮旧社地・源氏堀川館跡 | 若宮八幡宮旧社地・源氏堀川館跡 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 「此附近八幡太郎源義家誕生地」の石標 ![]() 本殿 ![]() ![]() ![]() 若宮稲荷社、若宮稲荷大明神 ![]() 若宮稲荷社 ![]() 若宮稲荷社 ![]() |
小社・若宮八幡宮(わかみや-はちまんぐう)は、若宮八幡宮(東山区五条坂)の旧鎮座地になっている。また、近八幡太郎源義家の生誕地とされている。 かつて、左女牛(さめうし)西洞院六条にあっため、六条左女牛(さめがい)八幡、六条左女牛若宮、六条八幡、左女牛八幡などとも呼ばれた。 祭神は第14代・仲哀天皇、第15代・応神天皇、仲哀天皇皇后の神功皇后、鎌倉時代の第85代・仲恭天皇を祀る。 ◆歴史年表 平安時代、1053年、第70代・後冷泉天皇の勅願により、武将・源頼義が邸内(六条西洞院)に勧請したという。(『二十二社註式』)。八幡の若宮として祀ったともいう。(社伝) 1140年、石清水八幡宮の火災に際して、神霊が当宮に遷されたとの風評により、神威を高める。 1185年、「廷尉禅室(源為義)六条御遺跡」と記されている。(『吾妻鏡』、同年条)。源頼朝(1147-1199)は領地の寄進をし、二度社参している。源氏一族、有力御家人の信仰も篤かった。 1186年、有力御家人、幕府政所により社殿造営、遷宮が行われる。 1187年、1186年とも、社地左女牛の寄進を受ける。初の放生会が行われる。 鎌倉時代、1209年、遷宮が行われる。 1274年、焼失している。 室町時代、隆盛を極めた。足利歴代将軍の崇敬も集め、社域、社領を拡大する。 応仁・文明の乱(1467-1477)後荒廃した。 安土・桃山時代、1583年、天正年間(1573-1592)、羽柴秀吉により東山に移転させられた。旅所に遷座ともいう。(『東鑑』) 1588年、東山の方広寺の北に再移転となる。 江戸時代、1605年、五条坂に再々移転になる。(「若宮八幡宮文書」)。その後もこの地は、旧地として小社が祀られ続けている。 ◆源 頼義 平安時代中期の武将・源 頼義(みなもと-の-よりよし、988-1075)。男性。河内国(大阪府)の生まれ。父・河内源氏初代・頼信、母・修理命婦(しゆりみようぶ)の嫡男。妻・平直方(なおかた)の娘。1030年、平忠常の乱(長元の乱)で、父と共に上総に下り平定し、河内源氏2代目として東国への進出を図る。小一条院(敦明親王)の判官代として仕え、その功により、1036年、相模守になり、東国の武士を従えた。1051年、安倍頼時の乱に陸奥守として派遣され頼時を帰服させた。1053年、鎮守府将軍を兼ねる。1056年、頼時は再び反乱する。1057年、頼義は頼時を討つ。頼時の子・貞任(さだとう)らは抵抗する。1062年、出羽の清原光頼・武則の支援で貞任を降伏させ、1051年来の前九年の役を子・義家とともに平定した。その功により、1063年、正四位下伊予守になった。石清水八幡を鎌倉由比(ゆい)郷に勧請し、鶴岡若宮(鶴岡八幡宮前身)を創建して源氏の氏神とした。88歳。 武芸に秀で弓の達人として知られた。坂東武士の多くを門客として組織し、東国での源氏勢力を強化した。 父と共に菩提寺・通法寺(羽曵野市)を開き、その寺跡に墓がある。 ◆源 義家 平安時代後期の武将・源 義家(みなもと-の-よしいえ、1039-1106)。男性。幼名は源太丸、通称は八幡太郎。河内源氏の嫡流。父・源頼義、母・平直方の娘の長子。7歳で石清水八幡宮宝前で元服し八幡太郎と号した。1051年-1062年、前九年の役で父に従い参戦する。1057年、黄海の戦の大敗で頼義らが包囲された際に義家の騎射により救ったという。1062年、前九年の役を平定する。1063年、戦功により従五位下、出羽守に任じられた。1064年、美濃国の郎従を攻撃した源国房と合戦した。1070年、陸奥で反乱を起こした藤原基通を追討する。1079年、美濃で私戦を起した源重宗を追討した。1081年、第72代・白河天皇の賀茂・春日などへの行幸に際し、園城寺悪僧の防御に当たる。1083年、陸奥守兼鎮守府将軍に就任した。1083年-1087年、豪族・清原氏の内紛の後三年の役に介入し、真衡を援助した。調停に反抗した家衡、武衡らを討つ。朝廷は私戦と判定し官符・恩賞を与えなかった。義家は随従した武士に私財を恩賞として与え、関東の武士は源氏に従う。義家は「天下第一の武人」として名声を得た。摂関家に近侍した弟・義綱と対立し、1091年、所領争いから義綱と京都で対峙する。義家のみ諸国からの荘園寄進を禁止される。 1098年、白河法皇の意向により武士として初めて昇殿を許され、院の側近になる。1101年、嫡男・義親が九州で乱行し、1102年、隠岐に配流される。1104年、延暦寺悪僧を追討した。1106年、3男・義国と弟・義光らが東国で合戦し、朝廷から召喚を命ぜられるなど一族の不祥事が相次ぐ。1106年、義家没後の一族の後継者争いは、源氏勢力の衰亡、平氏台頭を招いた。68歳。 ◆源 為義 平安時代後期の武将・源 為義(みなもと-の-ためよし、1096-1156)。男性。通称は六条堀河に住み六条判官。父・源義親(よしちか)の4男。源義家の孫。1108年、父は乱行により平正盛に追討される。為義は、叔父・源義忠の養子になる。悪左府(あくさふ)・藤原頼長の従者になった。1109年、義忠が殺害され、朝命により義家の弟・義綱一族を追討し、その功で左衛門尉に任官した。祖父・義家を継ぎ河内源氏の当主になる。白河法皇(第72代)から第74代・鳥羽天皇の警護に起用される。1135年、瀬戸内海の海賊追討使の候補になるものの、鳥羽上皇は為義を嫌い、平忠盛を任命した。為義は、次第に摂関家・藤原忠実に接近する。1143年、藤原頼長に臣従した。警護・家人取締り・興福寺悪僧の処罰・荘園の管理などを一族と共に担う。1146年、検非違使になった。1150年、忠実が長男・忠通を義絶した際に、東三条殿の警備に当たる。1154年/1155年、為義の子・為朝の九州での乱行により解官された。家督を長子・義朝に譲る。1156年、保元の乱で崇徳上皇(第75代)・藤原頼長方に子・頼賢・為朝らと加わる。第77代・後白河天皇方に付いた義朝と敵対した。夜襲の献策を頼長に退けられ敗北した。潜伏後、延暦寺で出家し義朝への助命嘆願も及ばず、旧7月、義朝により5人の子らと船岡山で斬首される。61歳。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『京都 歴史案内 』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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