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釜ヶ淵 (京都市南区) Kamagafuchi (deep pool) |
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釜ヶ淵 | 釜ヶ淵 |
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![]() 陶化橋上流、かつての「釜ヶ淵」付近 ![]() 陶化橋 ![]() 【参照】建仁寺「東の鐘」 |
十条通、鴨川にかかる陶化橋上流付近は、かつて、釜ヶ淵(かまがふち)といわれていた。ここには、鴨川で一番深い淵があったという。 ◆歴史年表 平安時代、源融(822-895)の六条河原院にあったという大梵鐘も、河原院の荒廃後はこの淵に沈んでいたという。 栄西(1141- 1215)は、官に請い、鐘を引き上げたという。 安土・桃山時代、大盗賊・石川五右衛門(?-1594)の釜茹に使われた釜は鴨川に捨てられた。一年後に、鴨川の洪水によりこの淵まで流され、以来、釜ヶ淵と呼ばれるようになったという。 近代、明治期(1868-1912)まで、釜ヶ淵という呼称は使われていたという。 現代、1992年以来、国、府、市による「鴨川陶化橋上流域環境整備対策本部」により、公営住宅の建設、周辺の鴨川河川改修・河川敷の整備事業が進行している。 ◆源 融 平安時代初期の公卿・源 融(みなもと-の-とおる、822-895)。男性。河原左大臣と呼ばれた。父・第52代・嵯峨天皇、母・大原全子(またこ)の第8皇子。元服後、義兄の第54代・ 仁明天皇の皇子となる。源の姓になり、856年、参議、872年、左大臣になる。880年、公卿・藤原基経が摂政になり隠遁生活に入る。河原院、宇治、嵯峨・棲霞観(せいかかん、清凉寺)の別業(別荘)で過した。風流三昧の生涯を送り、皇位に就くことはかなわなかった。『源氏物語』の光源氏、河原院は六条院のモデルとされる。74歳。 枳殻亭(渉成園)内に供養塔がある。 ◆栄西 平安時代後期-鎌倉時代前期の臨済宗の僧・栄西(えいさい/ようさい、1141-1215)。男性。俗姓は賀陽(かや)、幼名は千寿丸、別称は葉上房、千光(せんこう)祖師。備中(岡山県)の吉備津神社の社家・賀陽(かや)氏に生まれた。天台宗の安養寺の静心につく。1153年、13歳で比叡山に上り、1154年、出家し栄西と称した。1157年、法兄・千命により密教を学ぶ。1159年、比叡山北谷八尾の竹林房、顕教の有弁に学ぶ。比叡山を下り、1167年、故郷の安養寺で灌頂を受け、備前・金山寺、日応寺、伯耆の大山寺で行を行う。1168年、宋船で宋に半年間留学し、天台山、阿育王山で臨在禅に触れる。現地で東大寺の重源と遭う。台密葉上流を開く。1175年より、今津の誓願寺に住した。1185年、第82代・後鳥羽天皇の勅により神泉苑で祈雨修法を行う。葉上の号を贈られる。1187年、再び南宋に入宋するが、念願したインド行きはかなわなかった。天台山、天童山に入り、大蔵経を3度読破する。臨済宗黄竜派、万年寺の虚庵懐敞に禅を学び、印可を得た。1191年、帰国し臨済宗を開宗した。1192年、筑前に報恩寺を建てた。平戸の庵(後の千光院)で日本初の臨在禅(禅規)を行う。1194年、栄西、達磨宗の大日能忍らは、延暦寺衆僧により、禅宗弘法を禁じられた。やむなく、1195年、日本初の禅寺・聖福寺を博多に建立した。臨済禅は公家に拮抗する鎌倉幕府、2代将軍・源頼家に信を得る。1199年頃、鎌倉に移る。1200年、北条政子発願により鎌倉・寿福寺を開く。源頼朝一周忌の導師を勤めた。1202年、幕府の外護により建仁寺などを建立する。重源を継いで、1206年、奈良・東大寺の僧正にも就いた。1208年、法勝寺再建にも関わる。1211年より、宋より帰国した泉涌寺開山・俊芿を建仁寺に招き律学を講じさせた。1213年、権僧正。日本臨済宗千光派の祖。鎌倉の寿福寺で亡くなったとも、建仁寺で亡くなったともいう。75歳。 ◆石川 五右衛門 安土・桃山時代の盗賊・石川 五右衛門(いしかわ-ごえもん、?-1594)。詳細不明。男性。五郎吉。河内国(大阪府)の生まれ。17歳で家を出で伊賀の異人僧・臨寛に忍術を習い、郷士・百地三太夫に仕えたともいう。また、浜松・三好家家臣・石川明石の子で、16歳で宝物庫の金装具刀を盗み諸国放浪した。また、浜松の武士・真田八郎ともいう。盗賊団の首領になり、京都・大坂・堺の市中を荒らし、1594年、豊臣秀吉の命をうけた五奉行の一人、前田玄以に捕らえられる。三条河原(六条河原とも)で子・一郎、父母兄弟、郎党20人とともに釜ゆで(煮殺し)の刑に処されたという。37歳。 浄瑠璃、歌舞伎、読み本などの題材になる。 ◆梵鐘 平安時代前期、源融(822-895)の六条河原院にあったという大梵鐘は、河原院の荒廃後はこの淵に沈んでいたという。また、鐘は七条の南の淵に沈んでいた、土中にあったともいう。源融は『源氏物語』中の光源氏のモデルともいわれている。 平安時代、建仁寺を開山した栄西(1141-1215)は、官に請い、鐘を引き揚げようとした。だが、重すぎて揚げられなかった。そこで、人々に「栄西栄西」「長音座」との掛け声を指示して、引き揚げることができたという。以来、「えっさ」「えっさ、よっさ」の掛け声が生まれたという。その鐘はいま、建仁寺境内に「東の鐘」としてあり、「京都第三位の大鐘」として知られている。 梵鐘は、「陀羅尼の鐘」とも呼ばれた。陀羅尼経を唱え、鐘を撞くことに由来しているという。また、花街のだらりの帯にかけているともいう。鐘を運ぶ際に傷つき、鐘の音が割れた。「だらんとした音がする」として名づけられたともいう。 ◆五右衛門 釜ヶ淵の名の由来は、安土・桃山時代の大盗賊・石川五右衛門(?-1594)と関わりがあるともいう。 1594年、豊臣秀吉に命により、所司代・前田玄以に捕らえられた五右衛門は、仲間20人(母、7歳の息子も一緒だったとも)とともに、三条河原(伝承では七条河原とも)で釜茹(油煮)されたという。 処刑に使われた釜は鴨川に捨てられた。一年後、鴨川の洪水により釜はこの淵まで流された。以来、付近の淵は釜ヶ淵と呼ばれるようになったという。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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