森谷神社・富士神社 (京都市左京区二ノ瀬)
Moritani-jinja Shrine,Fuji-jinja Shrine
森谷神社・富士神社  森谷神社・富士神社 
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拝殿



拝殿



本殿覆屋


 鞍馬街道から西へ、鞍馬川沿い二ノ瀬の里に小さな社がある。道は、貴船に通じる夜泣峠に続く。
 境内には、小野の宮・惟喬親王を祀る森谷(守谷)神社(もりたに/もりや じんじゃ、東宮)と、その母・紀静子を祀る富士神社(ぶじ-じんじゃ、西宮)の二社が祀られている。 
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 惟喬親王を祀る森谷神社は、二ノ瀬東の山腹にあったという。
 平安時代、862年、惟喬親王は二の瀬に仮居し、里人に挽物、木地挽物を伝えたとされ祖神になる。
 
873年、東宮が創建されたという。
 近年、洪水により社が流され、この地に移転し合祀された。
◆惟喬親王 平安時代中期の皇族・惟喬親王(これたか-しんのう、844-897)。惟高、通称は小野宮、水無瀬宮(みなせぐう)、法名を素覚。第55代・文徳天皇の第1皇子、母は紀氏の右兵衛督(うひょうえのかみ)・紀名虎(きのなとら)の娘・静子。文徳天皇は当初、惟喬親王を皇太子にしようとした。850年、右大臣・藤原良房の娘・明子との間に第4皇子・惟仁(これひと)親王(第56代・清和天皇)が産まれ、惟仁親王が皇太子になった。先例のない皇位継承は、文徳天皇の外祖父・良房への気兼ねと、惟喬親王の母が藤原一門ではなく、紀氏の出自だったためともいう。857年、元服し四品になる。皇位を失った惟喬親王は、858年、大宰師、弾正尹、常陸太守を歴任した。868年、母紀氏のために『法華経』『普賢観経』を書写し冥福を祈った。872年、上野太守などの役職を歴任した。病になり出家し、素覚と号し洛北小野に隠棲する。惟仁親王立太子の際に出家したともいう。岩屋山金峯寺に宮を建て住んだともいう。耕雲入道と名乗り、宮を耕雲寺(高雲禅寺)としたともいう。在原業平、紀有常らも親王の元を訪れたという。その後、病に倒れる。死期迫り、御所の川上の地を避け、さらに北にある小野・大森の地へ移り亡くなったという。歌は『古今和歌集』ほかに入集。54歳。
 詩歌に優れた。皇太子争いについて説話として、良房と名虎は、各々真言僧真雅と真済とに修法を行わせた、両人が相撲をとって決着をつけたともいう。親王は、各地に木地師の祖との伝承が残る。 近江・小椋(おぐら)に隠棲して木地屋の職祖になったともいう。
◆紀静子 平安時代中期の女性・紀静子(きの-しずこ、?-866)。紀氏、三条町(さんじょうのまち)。正四位下右兵衛督・紀名虎(きのなとら)(贈大納言)の娘。紀種子(たねこ)の妹。第55代・文徳天皇の東宮時代に入侍、844年、第1皇子・惟喬親王、846年、第2皇子・惟条親王、848年頃、斎宮恬子内親王、その後、斎院述子内親王、珍子内親王を産む。850年、文徳天皇即位後、更衣。855年、正五位下に叙された。後従四位上に昇叙。『古今和歌集』に1首入集。
◆境内社 境内社は、素戔嗚尊、子・大己貴尊(おおなむちのみこと)、木ノ花之開耶姫尊(このはなさくやひめ)、大山祇尊、地主大明神を祀る。
◆埋銭 二ノ瀬地区で、1998年に4万枚ほどの銭貨が出土した。これらは、国内の銭貨だけではなく北宋銭などだった。埋められた時期、目的については確定されていない。
◆年間行事 お火焚きの神事(11月第2酉の日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 当社由緒、『京都市の地名』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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本殿覆屋

本殿

本殿
森谷神社・富士神社 〒601-1113 京都市左京区鞍馬二ノ瀬 
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